第43話「法案が本会議に上程された」
お読みいただきありがとうございます。公聴会から一週間。「人間創作規制法案、本会議上程」の見出しが出た朝から始まる、採決を待ちながら弾き続ける一週間の話です。あの母子が、また来ました。
公聴会から一週間が経った。
朝、壁のパネルに「人間創作規制法案、本会議上程」という見出しが出た。委員会の審議を経て、本会議に提出された、という内容だった。採決日程はまだ決まっていなかった。賛成派と反対派、双方から動きがあると書いてあった。
その記事の下に別の記事があった。「公聴会でのギター演奏、議会内外で反響」という見出しだった。SNSに映像が広まり、賛否の声が分かれていたと書いてあった。記事の文中に「ミュージシャンの田中直樹氏」という名前が出ていた。法案の記事に自分の名前が出るのは二度目だった。直樹はその一行を一度読んで、視線を次に移した。
スタジオに行った。三時間弾いた。採決がいつになっても、今日弾くことは変わらない。それだけのことだった。
練習の合間に、スタジオを出て近くの公園で少し息をついた。空が晴れていた。ベンチに老人が座って鳩に餌をやっていた。鳩が集まって、散って、また集まった。特に何も考えなかった。ただ十五分ほどそこにいて、またスタジオに戻った。公聴会の前日も同じスタジオで練習した。あの日も今日も、窓の外は同じように明るかった。ただ、今日の方が体が軽い気がした。
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その日の午後、弁護士の女性から連絡が入った。
「本会議の上程が確定しました。採決は来週から再来週の間になる見込みです。何か動きがあればまた連絡します」
「わかりました」と直樹は返した。「それまでは、普通にライブを続けます」
「それがいいと思います」と彼女は言った。「あなたが弾き続けていることが、一番の答えだと私は思っています」
電話が切れた。弾き続けること。それがすでに答えになっている、と彼女は言った。直樹にはまだそれが実感としてはなかった。ただ、弾く理由がなくなったわけではなかった。
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その週のライブには三十三人が来た。
これまでより少し多かった。見たことがある顔と、初めての顔が混ざっていた。後ろの方で立って聞いている若い男が何人かいた。開演前に河合が「今日は増えてるな」とカウンターから言った。「公聴会の件が広まったんだろう」。
「そうかもしれません」
「来た理由がなんであれ、来てくれたなら弾くだけだ」と河合は言った。「そうだろ」
「そうですね」
河合が「じゃあ行ってこい」と言って、グラスを拭き始めた。
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ライブが始まった。一曲目から順番に弾いた。
三曲目が終わったとき、後ろで立っていた男のうちの一人が少し前に移動した。直樹はそれを見ながら四曲目に入った。
前列を見た。あの母子がいた。前回と同じ座席に座っていた。子どもが直樹の方を見ていた。泣いていなかった。ただ見ていた。膝の上に両手を置いて、まっすぐ前を向いていた。
あの夜と同じように弾いた。二番の入りで指が一瞬遅れた。音が少し濁った。止まらなかった。曲が終わったとき、子どもが一度だけ手を叩いた。小さな拍手だった。まわりの大人より早く止んだ。母親が微笑んだ。直樹は頷いた。
残り四曲を弾き切った。最後の曲が終わったとき、三十三人分の拍手があった。前よりも少し長かった。ただ直樹には、子どもの一回の拍手の方がはっきり残っていた。
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ライブが終わってから、楽屋に一人でいた。
片づけていると、来場者の一人が入ってきた。三十代くらいの女性だった。「今日、初めて来ました」と言った。「映像を見てから、一度生で聴いてみたくて」
「来てくれてありがとうございます」と直樹は言った。
「あの、四曲目の曲、なんていう曲ですか」と女性は聞いた。
「タイトルはついていないんです」と直樹は言った。「最初に作った曲なので」
女性が少し間を置いた。「そうなんですね。また来ます」と言って出ていった。
弁護士の女性から追加の連絡が入ったのは、その後だった。「公聴会での証言を引用した反対意見書が二件、議事録に記録されています。あなたの弾いた曲についての言及も含まれています」
「曲についての言及?」と直樹は聞いた。
「審査基準では計測できない何かがある、という文脈で引用されています」
「そうですか」と直樹は言った。「弾いた曲が記録に残ったということですね」
「そういうことです」と彼女は言った。「どこかで誰かが読みます」
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その夜、三田がライブハウスに来ていた。
河合に何か飲みながら、カウンターに座っていた。直樹が楽屋から出ると「どうだった」と聞いた。
「緊張しました」と直樹は言った。「公聴会のことか、今夜のことか、両方です」
三田が少し間を置いてから「見てた人間の話だと、お前の十分が一番印象に残ったらしい」と言った。「子どもが泣いた話は、数字じゃないから数字で返せない。そういうことだ」
「あの子が今夜また来ていました」と直樹は言った。「最後に一回だけ拍手してくれました」
三田が「そうか。来るんだな、また」と言った。「じゃあ続けるしかないな。礼は要らない。続けろ」と言って立ち上がった。
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帰り際、河合がカウンターを磨きながら「採決はいつだ」と聞いた。
「来週から再来週の間らしいです」
「そうか。待つしかないな」
「はい。その間も弾きます」
「なら十分だ」と河合は言って、磨き続けた。
直樹は少し間を置いてから「河合さん」と言った。
「なんだ」
「採決が終わったら、また報告しに来ます」
河合が磨く手を止めた。「来なくていい。どうなったかは聞こえてくる」
「そうですか」
「その代わり、終わった後も弾きに来い。それだけでいい」
「わかりました」と直樹は言った。
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ライブハウスを出た。夜の東京を歩いた。
あの来場者の女性が「タイトルはないんですか」と聞いた。タイトルをつけていなかった。最初に作った曲だから、ただそう呼んでいた。あの子どもが泣いた曲、河合のライブハウスで一人弾いた曲、公聴会で弾いた曲。それぞれの夜の名前がついていた。曲の外側に、名前が積み重なっていた。
いつかタイトルをつけるかもしれない。ただ今はまだつけなくていい、という気がした。名前がつく前に、もう少し何かが積み重なる気がした。
視界の右上を確認した。99.50%。変わらない。
〇・五パーセントが何かは、まだわからなかった。ただ次のライブは三週間後だった。その間も弾き続ける。来るべき場面は、来るときに来る。
橋の上を通ったとき、川の水面が夜の光を反射していた。前の転生での幕末の夜、鴨川を渡ったことがあった。水の音が足元にあった。今夜の東京の川は静かだった。どちらもただの川だった。ただそこにある川が、前後に流れていた。
橋を渡り終えて、直樹はアパートに向かった。採決がいつになるかは、まだわからない。ただ弾くことは続く。そういう毎日が積み重なっていく。それだけのことだと思った。〇・五パーセントが何かは、その積み重ねの中のどこかにあるはずだった。
アパートの階段を上がりながら、脳内で声が来た。
「今夜、あの子が来てたわね」
ルキアだった。
「来ていました」
「拍手してた」
「一回だけ」
「……そうね」とルキアは言った。それだけだった。
直樹は部屋に入った。今夜は何も聞かなかった。ルキアも何も言わなかった。それだけでよかった。
次話:第44話「廃案になった夜」
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