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第40話「公聴会の前日」

お読みいただきありがとうございます。法案の記事を開くと、参考人の名前が並んでいました。「ミュージシャン、田中直樹」——自分の名前が法案の記事に出た朝から始まる、公聴会前日の一日の話です。

公聴会の前日の朝、壁のパネルに法案の記事が流れていた。


 「人間創作規制法案、本会議上程まで一週間。参考人公聴会を明日開催」という見出しだった。直樹は記事を読んだ。参考人として登録されている五人の名前が並んでいた。直樹の名前もあった。「人間ミュージシャン、田中直樹」と書いてあった。初めて自分の名前が法案の記事に出た。


 名前を見てから、また記事に戻った。五人のうち四人には肩書きがついていた。大学教授、評論家、作家協会理事、弁護士。直樹の肩書きには「ミュージシャン」とだけ書いてあった。それで十分だ、という気がした。


---


 午前中にスタジオを借りた。


 三時間、声を出した。ギターを弾いた。証言で使うつもりの言葉を声に出して確認した。言葉を声にすると、頭の中で考えていたものと違う部分が見えてくる。前世でカールに伝えるとき、絵を描いて初めて「伝えたいことがここにある」と気づいたのと似ていた。言葉を出すことで、自分が何を言いたいかがわかっていった。


 三田がスタジオの隅に座って聞いていた。


 「どうですか」と直樹は一時間後に聞いた。


 「悪くない」と三田は言った。「ただ、言葉が整いすぎてる感じがする。準備した文章じゃなくて、今感じていることを今の言葉で言う方がいい」


 「難しいですね」


 「そうだよ。でも、お前が一番うまいのはそっちだと俺は思う」


 直樹は少し考えた。前世で師に「なぜ残った」と問われたとき、考えた末に出てきた言葉は「ここにいたかったので」だった。準備した言葉ではなかった。一番短い言葉を選んだら、それになった。明日もそれでいい、という気がした。


 二時間後、直樹は一度止まって「今感じていることを今の言葉で言う」という練習をした。頭の中から文章を排除して、あの夜の楽屋のことだけを頭に置いた。子どもが泣いていた。声を出さずに泣いていた。それを話す。それだけでいい。言葉が整っていなくていい。


 「ギターも持っていきます」と直樹は言った。


 「公聴会でか」


 「言葉で言えない部分を弾きます」


 三田が少し間を置いた。「そうか。それはいい。賛否があるかもしれないけど、言いたいことが伝わるならそれでいい」


---


 午後、弁護士の女性と最終確認をした。


 書類はすでに提出済みだった。明日の公聴会は午後二時からで、参考人は直樹を含めて五人いる。発言時間は一人あたり十分。その後に質疑応答がある。


 「緊張しますか」と弁護士の女性が聞いた。


 「します」と直樹は言った。正直に言った。


 「そうですか」と彼女は言った。「ただ、十分間、自分のことを話せばいい。あなたには先週、子どもを泣かせた事実がある。公聴会でそれを話せばいい」


 「それだけでいいんでしょうか」


 「議員に届くかどうかはわかりません。ただ、届かなくても言う価値はある」と彼女は言った。「言ったことは記録に残ります。どこかで誰かが読む」


 直樹はその言葉を聞いた。前の転生で、カールが故国に帰って日本の医術についての記録を書いた、という話を思い出した。師の名前が残ったという話だった。あのとき直之介は記録のことを知らなかった。先に逝った側だった。それでも、残った。


 言ったことは残る。それだけでいい。


---


 夕方、河合のライブハウスに寄った。


 ライブがない日の夕方、河合はカウンターを磨いていた。


 「明日だな」と河合は言った。


 「はい」


 「うまくいくといいな」と言った。それだけだった。お世辞は言わない人間だとわかっていた。


 「河合さんが断ったこと、正解だったと思います」と直樹は言った。「AI体験スペースへの転換を断ったこと」


 「まあな」


 「こういう場所が残っていたから、あの子どもが来た。あの子どもが泣いた」


 河合がしばらく止まった。磨いていた手が止まった。


 「そういうことか」と河合は言った。


 「そういうことだと思います」


 河合が「そうか」と言って、磨き続けた。少し間があった。


 「明日、何を弾くつもりだ」と河合が聞いた。


 「四曲目です。あの子どもが泣いた曲を弾きます」


 河合が少し目を細めた。「そうか。それでいい」


 帰り際に、河合が「応援してる」と言った。正面を向いたまま言った。直樹は頷いた。


 外に出て、ライブハウスの入口の看板を見た。手書きの文字で「LIVE SPACE」と書いてあった。電子看板ではなく、河合が毎年書き直しているものだった。文字が少し歪んでいた。均一ではなかった。均一でないから、毎年同じに見えて同じではなかった。


 明日も手書きのままでいてほしい、と思いながら歩き始めた。


---


 その夜、アパートに一人でいた。


 集まりのグループに、今日も何件かのメッセージが届いていた。長谷から「意見書を出した。明日、聴いてる」。画家の女性から「頑張って。ただそれだけ言いたかった」。初めてギターを弾いた若い男から「直樹さんの演奏聴いた後、俺も弾きました。ありがとう」。


 直樹はそれぞれを読んだ。返信は短くした。「ありがとうございます」それだけだった。


 明日のことを考えた。十分間の発言。一人で立って、話す。


 前の転生では、体が先に動いた。魔物が来たとき、足が動いていた。師を背負って走ったとき、計算が追いついていなかった。今回は言葉で立つ場面だった。体が先に動く種類の場面ではない。それが、今回の難しさだった。


 ただ、前の転生でも、初めてのことは常に難しかった。カールに絵と身振りで伝えようとした最初の一日は、笑われた。三日目に繋がった。失敗が先だった。廃坑の最深部で、最初は吹っ飛ばされた。立ち上がってから気づいた。


 明日は失敗するかもしれない。うまく言えないかもしれない。ただ、今の直樹には言うべきことがある。あの子どもが泣いた事実がある。完璧ではない演奏で、子どもが泣いた。その事実を、明日の場所で話す。それだけのことだ。


 前世で、カールに伝えようとした最初の一日を思い出した。絵を描いて、身振りをして、笑われた。言葉が通じない相手に何かを届けようとするとき、整った方法は必要ない。届けたいという意志だけがあれば、方法は後から出てくる。明日の場所でも同じだ。


 壁のギターを見た。明日は持っていく。言葉で言えない部分は、最後に一曲弾く。それがうまくできるかどうかはわからない。ただ、弾く。それだけ決まっていた。


---


 眠る前に、直樹はしばらく天井を見ていた。


 脳内で声が来た。


「まだ起きてるの」


 ルキアだった。


「少し考えていただけだ」


「何を」


「前の転生のことを。似ている気がして」


「何が」


「動く前の夜の感覚が」


 少し間があった。


「……そうね」とルキアは言った。「前の転生でも、いつも夜の前に動いた。昼間じゃなかった」


「ルキア」


「何」


「見てるか」


「見てる」とルキアは言った。「いつも見てるって、言ったでしょう」


「わかった」


「明日、ギターを弾くのね」


「弾く」


「……そう」とルキアは言った。それだけだった。いつもの評価でも罵声でもなかった。ただそれだけだった。


「ルキア、その「そう」は、いい意味か」


「……寝なさい」


 声が消えた。


 直樹は少し笑った。笑っていることに気づいた。珍しかった。


 視界の右上を確認した。90.00%。変わらない。


 目を閉じた。明日の午後二時まで、まだ時間がある。

次話:第41話「公聴会で、俺は弾いた」

十分間の発言。そして、ギターを持って立つ話です。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

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