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第39話「ゲージが動いた夜、俺は決めた」

お読みいただきありがとうございます。ゲージが20%動いた夜、直樹はライブハウスを出て夜の東京を歩きました。90.00%。残り10%が何かはまだわからない。ただ、やることだけが決まっていった夜の話です。

ライブハウスを出たのは夜の十二時近かった。


 河合が「ゆっくり帰れよ」と言った。直樹は頷いた。


 夜の東京を歩いた。2140年の夜は明るい。建物の外壁に埋め込まれたパネルが広告を流し、自動運転の車がライトをつけて走っていた。ある建物の壁に、AI生成の音楽サービスの大きな広告があった。「いつでも、あなただけの最適な音楽を。」そのキャッチコピーの下に、どこにも引っかかりのない旋律の映像が流れていた。完璧な音だった。


 その光の中を歩きながら、直樹は今夜のことを整理しようとした。整理できなかった。ゲージが二十パーセント動いた。その事実だけが確かだった。


 四曲目を弾いていたとき、子どもが泣いた。完璧ではない演奏で、子どもが泣いた。数値にならない何かが届いた。それだけのことだが、それが全部だった。壁の広告が「最適な音楽」と言っていた。あの子どもに届いたのは、最適ではない音楽だった。


 コンビニの前を通ったとき、店内のBGMが聞こえた。AIが生成した曲だった。完璧な音の処理、どこにも引っかかりのない旋律。不快なわけではなかった。ただ、今夜の楽屋で一人もう一度鳴らした四曲目の音とは、何かが違った。何が違うかを言葉にしようとすると、うまく出てこなかった。ただ、違うということだけがあった。


---


 アパートに帰って、椅子に座った。しばらく何もしなかった。


 ゲージが動いた後、こういう感覚になるのは初めてではなかった。前の転生でも同じだった。カインが笑ったとき、師の顔が戻ったとき。体の外側が静かになって、内側だけが動いているような感覚だった。


 今夜の子どもの顔を思い返した。声を出さずに泣いていた。母親の袖をつかんで、ただ泣いていた。「なんで泣いたか」と聞かれて「わかんない」と言った。その「わかんない」が、直樹には一番正直に感じた。


 わかんないから泣いた。説明できないから届いた。


 それが、俺にしかできないことの意味だ、と思った。前世の自分が退職届を出した日、「AIにできることを俺がやる必要はない」と言った。そのとき正しいと思っていた。今の直樹にはそれが正しいとは思えない。ただ、なぜ違うかを言葉にするのが難しかった。子どもが泣いた、というそれが答えだった。言葉にならない答えが、目の前にあった。


 前世の自分が逃げ続けたのは、「意味がない」と思ったからではなかった。意味を問う前に手を引いた。今の直樹は問いかけられている。「お前の音楽に、社会的な意味はあるか」と。その問いに、前世の自分は黙って帰った。今の直樹は、答えを持っている。言葉にはまだならない。ただ、子どもが泣いた、というその事実が、答えだ。


---


 脳内で声が来た。


「眠れないの?」


 ルキアだった。


「少し考えていました」


「何を」


「次のことを」


 少し間があった。


「聴いてるわ」とルキアは言った。


「法案の公聴会があります」と直樹は言った。「来月、人間創作規制法案についての参考人公聴会が開かれる。人間創作の当事者として意見を言える。申請すれば、ミュージシャンとして参加できるかもしれない」


「証言するつもりなの?」


「できるかどうかはわかりません。ただ、やってみる価値があると思っています。前の転生で、沖田に「来てから考える人間の方が好きだ」と言われた。今回も同じでいい、という気がしています」


 ルキアが少し黙った。「あなた、言葉で伝えるのは得意じゃないでしょう。論理では相手より上手い人間が来る。言語化が苦手なものを、言語化して伝えようとしてもうまくいかない」


「そうですね」と直樹は言った。「ただ、前の転生でカールに言葉なしで何かを伝えた。方法は一つじゃない。言葉で言えない部分は、ギターで伝えます」


「公聴会でギターを弾くつもり?」


「言葉とギターと、両方使います」


 少し間があった。


「……やってみなさい」とルキアは言った。いつもより短かった。


「ルキア」


「なに」


「90%になった」


「知ってる」


「残り10%が何かわかるか」


 少し間があった。


「……それはまだ言わない」とルキアは言った。


「いつか言うか」


「いつかは言う」


「わかった。では聞かない」


「それでいい」とルキアは言った。少し間があった。「ただ一つだけ言っておく」


「なんだ」


「あなたが今夜決めたことは、正しいわよ。私が言える範囲で言う。ゲージは操作できないけど、そういうことは言える」


「珍しいな」


「たまにはそういうこともある」


 声が消えた。


---


 翌日、直樹は集まりで知り合った人間に連絡を取った。


 弁護士の女性に最初に連絡した。集まりにいた、法案の詳細を調べている人間だった。「公聴会に参考人として申請することはできますか」と聞いた。


 「できます」と彼女はすぐに言った。「締め切りが来週の月曜です。書類を用意する必要があります。手伝えます。ただ、証言の内容は具体的な事実に基づく必要があります。「昨夜子どもが泣いた」という話は、具体的な事実として使えます」


 「そうですか」


 「ミュージシャンとして何を体験したかを、そのまま話してください。法律論は私が補います」


 「お願いします」


 「ギターを持っていくつもりです」と直樹は言った。「言葉で言えない部分を、最後に弾こうと思っています」


 彼女が少し間を置いた。「……前例はないですね。ただ、禁止はされていない。議長の裁量で止められる可能性はあります。それでも持っていきますか」


 「持っていきます」と直樹は言った。


 「わかりました」と彼女は言った。「私の方からも、演奏の機会を設けることを事前に議長に申し入れておきます」


 長谷にも連絡した。公聴会に出ると伝えた。


 「そうか」と長谷は言った。それだけだった。少し間を置いてから「俺も書こう」と言った。「意見書の形で出せるなら出す。直樹が証言するなら、同じ場所で別の形で声を出す」


 三田に連絡したら「河合からもう聞いた」と言われた。「応援する。何か手伝えることがあれば言え」と言った。


---


 その夜、直樹は公聴会で何を言うかを考え始めた。


 言葉にするのが難しかった。子どもが泣いた理由は「わかんない」だった。直樹にも、うまく言えなかった。ただ起きた。それだけが確かだった。


 前世のコンサルタントとして、「言語化できないこと」は弱点だと思っていた。証明できないものは価値がない、そういう考え方をしていた。今の直樹は、それを正しいとは思えなかった。子どもが泣いた事実は、言語化できなくても起きた。起きた事実は、言葉にならなくても本物だ。


 それを公聴会でどう伝えるか。言葉で言えない部分は、ギターで伝える。


 それだけ決まっていた。明日から練習が増える。


 視界の右上を確認した。90.00%。変わらない。


 ただ、確かに動いた。今夜の子どもの顔が頭の中に残っていた。前の転生でカインの笑顔が残ったように、師の笑いが残ったように、今夜はあの子どもの顔が残った。


 数字が動く瞬間には、いつも誰かの顔があった。そういうことか、とまたぼんやり思った。


 90.00%。残り10%が何かは、ルキアが「まだ言わない」と言った。明日の公聴会がその答えになるかどうかはわからない。ただ、やることはやる。子どもが泣いた事実を話す。ギターを弾く。それだけのことだ。残りは後からついてくる。前の二回の転生でも、いつもそうだった。


次話:第40話「公聴会の前日」

決断の翌日から、準備が始まります。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!

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