第38話「下手な演奏が、子どもを泣かせた」
お読みいただきありがとうございます。普通の夜のライブでした。二十八人の客、八曲のセットリスト。四曲目の後半で、前列の右端にいた子どもが声を上げずに泣き始めました。指が少し滑った、あの演奏で。
その夜は、普通のライブだった。
ライブハウスの月一回の定期公演で、客は二十八人来た。先週より少し増えていた。法案のニュースが広がるにつれ、人間の演奏を見に来る人間が増えているのかもしれなかった。ただ直樹にはそれをどう受け止めればいいかがまだわからなかった。来てくれた理由がなんであれ、今夜弾く、ということだけが決まっていた。
セットリストは八曲。全部自分で書いた曲だった。
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一曲目を弾き始めた。
地下の会場は天井が低い。音が返ってくるのが早い。AIのライブ配信とは違う密度があった。前列の顔が見えた。何度か来てくれている人間の顔と、初めて見る顔が混ざっていた。常連の五十代の女性がいつもの場所にいた。隣に連れを一人連れていた。後ろの方に立っている若い男がいた。
二曲弾いた。二曲目が終わったとき、後ろで立っていた若い男が少し場所を移動した。前の方に来た。
三曲目に入った。少し調子が良かった。入りのタイミングが前回より揃った。ただ二番のサビで声が少し薄くなった。直樹はそれを感じながら続けた。止まらなかった。
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四曲目を弾き始めたとき、前列の右端に小さい子どもがいることに気づいた。
四歳か五歳くらいだった。母親らしき女性の隣に座っていた。初めて見る顔だった。子どもはまっすぐ直樹の方を向いていた。ライブハウスに慣れていない様子だったが、落ち着いていた。膝の上に両手を置いて、ただ前を見ていた。
四曲目は静かな曲だった。メロディラインが単純で、コードが少ない。最初に作った曲の一つで、今でも時々ミスが出る。今夜も途中で指が少し滑った。弦を押さえる角度が一瞬ずれた。音が少し濁った。直樹はそのまま続けた。止まらなかった。止まる理由がなかった。
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曲の後半に入ったとき、子どもが泣いていた。
声を上げていたわけではなかった。母親の袖をつかんだまま、顔を変えずに泣いていた。涙が流れていた。母親が気づいて、子どもの肩に手を置いた。子どもは声を出さなかった。ただ泣いていた。
直樹は見た。見たまま弾き続けた。
曲が終わった。拍手が来た。直樹はギターを下ろした。次の曲を弾く前に、少し間を置いた。子どもはまだ母親の袖をつかんでいた。顔の水気を母親が拭いた。子どもは声を出さなかった。
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残り四曲を弾ききって、ライブが終わった。
拍手の中で直樹はギターを下ろした。二十八人分の拍手は小さかった。それでも止まらなかった。直樹は頭を下げた。前列の子どもと母親の顔が見えた。母親が拍手していた。子どもはしていなかった。ただこちらを見ていた。
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片づけをしていると、その女性が楽屋に来た。
「子どもが泣いてしまってすみませんでした」と言った。
「いいえ」と直樹は言った。
「びっくりして」と女性は続けた。「この子が音楽で泣いたの、初めてで」
直樹は少し間を置いた。「初めてですか」
「AIの曲はいつも聞かせてるんです。好きみたいだし、嫌がらないし。でも泣いたことはなかった。今日が初めてで」
子どもが母親の隣で、直樹を見ていた。泣いた様子はもうなかった。ただこちらを見ていた。目が乾いていた。
「なんで泣いたか、本人に聞きましたか」と直樹は言った。
女性が子どもに聞いた。子どもが少し考えてから「わかんない」と言った。
「そうですか」と直樹は言った。
「そういうものですよね」と女性は言った。「また来ていいですか」
「ぜひ来てください」と直樹は言った。
「ありがとうございました」と言って帰った。
子どもが帰り際に、一度だけ振り返った。直樹の方を見た。何かを言いたそうな顔ではなかった。ただ見た。それだけだった。直樹は頷いた。子どもが前を向いて母親と一緒に出ていった。
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楽屋に一人残ってから、直樹はしばらく動かなかった。
子どもが泣いた。
AIの音楽では泣いたことがなかった、というその事実が頭から離れなかった。完璧に処理された音楽で泣かなかった子どもが、指が滑った自分の演奏で泣いた。なぜかは「わかんない」と子どもは言った。
なぜかは、たぶん言えない。言えないから、数値にもならない。数値にならないから、藤岡の評価指標には入らない。
ただ起きた。
四曲目の後半、指が少し滑った。声がわずかに揺れた。完璧ではなかった。その不完全な何かが、子どもに届いた。AIが一秒で作る、どこにも引っかかりのない完璧な音楽には届かせられなかった何かが、不完全なまま届いた。
藤岡が「社会的意義の証明」と言っていた。あの子どもに何かが届いた瞬間、それを証明するものが存在した。子どもが泣いた。言葉でも数値でもなかった。ただ、確かに起きた。
これが、俺にしかできないことだ、と思った。言葉が先ではなかった。体の方から来た言葉だった。
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その瞬間、視界の右上が動いた。
【満足度ゲージ:70.00% → 90.00%】
二十パーセント。一度に動いた。
直樹はしばらくその数字を見ていた。前の転生で、カインが笑った後の数字と同じ動き方だった。ゲージが動く瞬間には、いつも誰かの顔があった。今夜は子どもの顔があった。
脳内で声が来た。
「……聞こえてたわ」
ルキアだった。静かだった。いつもの辛口ではなかった。
「見てたのか」
「ずっと見てる。わかってるでしょう」
「……そうだな」
少し間があった。
「あの子は正直だった」とルキアは言った。「理由がわからなくても泣いた。理由がわからないから泣いた、ということかもしれない。それがあなたの演奏に起きた」
「完璧じゃなかったから届いた、ということか」
「そうじゃない」とルキアは言った。声が少し違った。「あなたが弾いたから届いた。それだけよ」
声が消えた。
直樹はしばらく楽屋の壁を見ていた。それからギターを手に取った。今夜弾いた四曲目の最初の音を、もう一度鳴らした。音が楽屋に広がった。子どもが泣いたときと同じ曲が、楽屋の天井に広がった。
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河合が顔を出した。「お前、ゲージ動いたか」
直樹は少し驚いた。「なんでわかるんだ」
「楽屋から出てこないから。それと顔が違う」と河合は言った。「何があった」
「子どもが泣きました」
河合が「ああ」と言った。「あの子か。俺も見てた」
「AIの音楽では泣いたことがなかったと、お母さんが言っていました」
河合がしばらく黙った。それから「そうか」と言った。
「来年も来るかもしれない」と直樹は言った。
「来るよ、きっと」と河合は言った。「お前が弾き続ける理由が、また一つ増えた。それだけのことだ」
直樹は河合を見た。河合が笑っていた。珍しい顔だった。
「続けます」と直樹は言った。
河合が「そうだろ」と言って、カウンターに戻った。
直樹は楽屋に残ってもう一度ギターを鳴らした。今夜の音が、まだここにある気がした。藤岡が「社会的意義の証明」と言ったとき、直樹には言えなかった。証明という言葉が出てこなかった。ただ今夜の楽屋で、証明ではなく事実として、子どもが泣いた夜が手元に残っている。これを話せばいい。
あの子どもがまた来たとき、自分は同じ曲を弾くだろう。同じように指が滑るかもしれないし、滑らないかもしれない。どちらになるかはわからない。ただ、その日も弾く。弾けば何かが届くかもしれない。届かなくても、弾く。それだけのことだ、と思った。
次話:第39話「ゲージが動いた夜、俺は決めた」
【満足度ゲージ:70.00% → 90.00%】ゲージが動いた夜の話です。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




