第35話「お前の音楽に、社会的な意味はあるか」
お読みいただきありがとうございます。ライブが終わり、楽屋を片づけていると、初めて見る男が顔を出しました。「少しお時間いただけますか」——名刺を差し出した男の肩書きには「コンテンツ最適化部門」とありました。
ライブが終わったのは夜の十時過ぎだった。
客は二十三人だった。最前列に常連の顔が何人かあった。後ろの方に初めて見る若い男が一人いた。曲が終わるたびに、ちゃんと拍手をしていた。静かな夜だった。
直樹はギターを片づけながら、今日の演奏を確認した。三曲目のCサビで入りが少し遅れた。六曲目は声の調子が悪くて、高音が少し濁った。完璧ではなかった。ただ、最後まで止まらなかった。
オーナーの河合が「今日は良かった」と言いながらビールを持ってきた。直樹は「三曲目が崩れた」と言った。河合が「そこ気にするのお前だけだよ」と言った。「客は気にしてないって」
「自分は気にします」
「そういうとこだよ」と河合は言った。何かを言おうとして、止めた顔だった。
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ライブ後の片づけをしていると、初めて見た若い男が楽屋に顔を出した。
二十代前半に見える。身なりが整っていた。どこかの会社の人間、という印象だった。
「直樹さんですか」と男は言った。
「そうですが」
「少しお時間いただけますか。名刺をお渡しします」
受け取った名刺には、会社名と「コンテンツ最適化部門」という肩書きがあった。
直樹はその名刺を見た。会社名は知っていた。AIによる音楽・映像・文章の生成と配信を主業にしている企業で、今年の売上が日本の音楽市場全体の三分の一を超えたという記事を読んだことがある。
「何の用ですか」と直樹は言った。
男が少し間を置いた。
「直樹さんの音楽を、弊社のプラットフォームで取り扱いたいと思っています。ただ、その前に一点確認させてください」
「何を」
「お前の音楽に、社会的な意味はあるか」と男は言った。
直樹は少し黙った。
「そのまま聞いていいですか」
「どうぞ」
「弊社のAIは、月に四万曲を生成しています。それぞれの楽曲はリスナーの好みに最適化されており、平均満足度は人間のアーティストが作る楽曲を十一パーセント上回っています。その中で、人間が非効率な時間をかけて作った音楽を流通させることに、社会的なコストが発生しています。今日のお客さんは二十三人でしたね。その二十三人のために会場を用意して、機材を運んで、練習をして——そのコストを誰が負担しているか、という話です」
「俺が負担しています」と直樹は言った。
「そうですね」と男は言った。「ただ、法案が通れば変わります。商業的な人間創作には許可が必要になる。許可には条件があります。その条件の一つが、社会的意義の証明です」
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直樹は男を見た。
怒鳴りたいとか、殴りたいという感情は来なかった。ただ、静かに何かが固まっていく感覚があった。前の転生で路地に出たときに似ていた。来てしまったものを受け取る、という感覚に近かった。
「一つ聞いていいですか」と直樹は言った。
「どうぞ」
「今日来た二十三人が、俺の音楽に意味を感じているかどうか、あなたは確認しましたか」
「満足度データは収集できます」
「そうじゃなくて」と直樹は言った。「あの最前列に来ていた五十代の女性が、俺の四曲目で少し目を閉じていました。あの人が目を閉じた理由を、あなたのAIは説明できますか」
男が少し黙った。
「……それは感情的な反応であって——」
「そうですね」と直樹は言った。「感情的な反応です。社会的な意味があるかどうかは、俺にもまだわかりません。ただ、あの人が目を閉じた。それは俺が今日弾いたから起きたことです」
男が「ご検討いただけますか」と言って、頭を下げて出ていった。
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河合が楽屋の入口で聞いていた。
「あれ、どこの会社だ」と河合が言った。
「名刺の会社を見れば」
「見た。知ってる。ここにも来たよ、半年前に。うちを買い取って「AI音楽の体験型スペースに転換しませんか」って言ってきた」
「断ったんですか」
「断った。意味あるかどうかわからないけど、なんか嫌だったから」
直樹は河合を見た。
「そういう理由でいいと思います」と直樹は言った。
河合が「法案、どうなると思う」と言った。
「わかりません。通るかもしれない」
「通ったらどうする」
直樹は少し考えた。
「考えていません。通ってから考えます」
河合が「お前らしい」と言って、カウンターに戻った。
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会場を出ると、夜の空気が冷えていた。
2140年の東京の夜は明るい。広告の光、自動運転の車のライト、建物の外壁に埋め込まれたパネル。その中を歩きながら、直樹は今日の男の言葉を反芻した。
「お前の音楽に、社会的な意味はあるか」
前世の自分が退職したとき、似たような問いが頭にあった。「俺がここにいる意味は何か」。そのとき答えが出なくて、部屋に引きこもった。その記憶がある。
今回は答えが出ていない。ただ、引きこもる気にはならなかった。
あの最前列の女性が目を閉じた。それは今日あった事実だ。それだけでいい、という感覚があった。前の転生で師が言っていたことに似ていた。来る人間がいる間はやめる理由がない、という。
視界の右上を確認した。70.00%。変わらない。
ただ、何かが始まった感覚があった。前の二回の転生でも、最初はこういう静かな始まり方だった。ゴブリンが来るまでの畑仕事、体がついてこない京都の朝。今回は法案の審議と、名刺を持った男だった。
歩き続けた。アパートはまだ遠かった。
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帰り道の途中、コンビニに寄った。
入ると、店内のBGMが流れていた。AIが生成した曲だった。直樹には聞けばわかる。完璧すぎる音の処理、どこにも引っかかりがない旋律。人間が作れば何かしら雑味が出る。今日自分が弾いた音の、あの指の温度が混じった雑味が、この音にはない。不快なわけではなかった。ただ、今日の会場で鳴った音とは、何かが違った。何が違うのかを言葉にしようとすると、うまく出てこなかった。
飲み物を取りながら、直樹は考えた。
今日の男が「満足度データは収集できます」と言った。データは間違いなく集められるだろう。あの最前列の女性が目を閉じた瞬間、生体反応や視線の動きを記録することはできる。ただ、その数値が何を意味するかは、数値を見た人間が判断する。そして判断する人間が「非効率だ」という結論を先に持っていれば、数値はそれを支持する形に解釈される。
前世のコンサルタントとして、直樹はその構造を知っていた。データは答えを出さない。人間が答えを先に持って、データがそれを補強する。あの男が意識的にそれをやっているのかどうかはわからない。ただ、前の転生の自分が繰り返したパターンでもあった。結論を先に出して、それを支持するデータだけを拾う。今日の直樹は、逆の立場にいた。
レジで支払いをして、外に出た。自動ドアが閉まると、BGMが遠くなった。夜の空気がまだ冷えていた。
歩きながら、今日の八曲を頭の中で再生した。三曲目の入りが遅れた部分。六曲目の高音が濁った部分。どちらも残っていた。明日の練習で直せるかもしれない。直せなくても、また来週弾く。それだけのことだ。
アパートの前に着いた。鍵を出しながら、もう一度視界の右上を確認した。70.00%。今日は動かなかった。ただ、前の二回の転生の最初もそうだった。最初はなにも動かない。それからあることが起きて、動き始める。今日の男が何かの始まりなのかどうかは、まだわからない。
ドアを開けた。部屋の電気をつけた。ギターが壁に立てかけてあった。
明日の練習で何を直すか、少し考えた。三曲目の入り。六曲目の高音。どちらも技術の問題だった。法案のことも、今日の男のことも、明日の練習には関係ない。今夜は終わった。
明日も弾く。それだけは決まっていた。
次話:第36話「法案の賛成派と、もう一度話した」
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