第34話「三度目は、俺が逃げてきた世界だった」
お読みいただきありがとうございます。目が覚めると、天井が光素材で覆われていました。前の転生の記憶が届くまでに、少し時間がかかりました。2140年代の東京——売れない人間ミュージシャン「直樹」として、最初の朝が始まります。
目が覚めると、天井が光っていた。
板張りでも木格子でもない。白く薄い光を出す素材が天井一面を覆っていた。起き上がると、壁面の一枚がうっすら光り始め、時刻と気温が表示された。6:14。22度。曇り。情報が終わると、壁は元の白に戻った。
直樹は少し動かないでいた。
記憶が届くのに時間がかかった。前の二回の転生よりも少し長くかかった。今世の体の記憶——直樹としての28年間——が先に来た。アパートの間取り。月曜の朝。夜にライブがある。それから少し遅れて、前の記憶が届いた。師の背中を見ながら走った京都の夜。廃坑から全員を連れ出した夜。そしてもっと遠くに、中倉直人として会議室で退職届を出した朝。
今回は、日本に戻ってきた。
視界の右上を確認した。
【満足度ゲージ:70.00%】
引き継いできた。足りないまま、また始まる。
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直樹の部屋は、六畳と四畳半の二間だった。
六畳の方にベッドと小さな机。四畳半は完全に音楽に使っていた。卓上型の音源機材、ヘッドフォン、薄いモニタースピーカー。それと、壁に立てかけたアコースティックギター。物理的な弦楽器は今の時代では珍しい部類に入る。AIが音楽を生成するようになってから、楽器を自分で演奏する人間は減った。いつでもどこでも、好みに最適化された楽曲が端末から無料で流れてくる。それで十分な人間がほとんどだった。
それでも直樹はギターを弾き続けていた。
流しで顔を洗いながら、壁面に薄く流れているニュースに目がいった。
「人間創作規制法案、参議院委員会で本日審議入り」
直樹は水を止めた。
この法案のことは知っていた。AIが生産する芸術作品に対して人間の創作物が「市場の混乱要因」になっているとして、人間による商業的な創作活動を許可制にしようとする動きだ。賛成派は「非効率な市場コストの排除」と言う。反対派は「人間の表現の自由の侵害」と言う。国会では半年前から議論されていて、今日から委員会の本格審議が始まる。
今夜のライブまでに、このニュースがどう広がるかわからなかった。
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朝食を食べながら、直樹は今日のセットリストを確認した。
八曲。全部自分で書いた曲だ。AIが曲を作れるようになってからも、直樹は人に頼まなかった。AI生成の楽曲はクオリティが高い。音の処理、メロディラインの完成度、ミックスの精度、どれを取っても人間の手作業より速くて正確だ。ただ、直樹はそれを使う気になれなかった。うまく言語化できない理由だったが、強いて言えば「自分が作ったものじゃないから」ということだった。
前世の記憶がある。コンサルタントとして「AIでできるなら俺がやる必要はない」と言って退職した男の記憶が。その男がここで何かを言える立場にないとわかっている。ただ、あの男が手放したものを、今の直樹は手放したくなかった。なぜかはまだわからない。手放したくないという感覚だけがある。
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午前中、直樹は貸しスタジオに行った。
今日のライブ会場の近くにある場所で、一時間だけ声を出した。2140年の東京はスタジオの数が減っている。バンドで音を出す人間が減ったからだ。AIが生成する音楽は個人の端末で再生できるため、生音を出す場所の需要がなくなっていった。今日使ったスタジオは直樹が毎週使っている場所で、オーナーの三田さんが一人で回していた。
「今日何人来るの」と三田さんが聞いた。
「二十人前後だと思います」
「先週より増えたね」
「法案のニュースで来てくれる人がいるかもしれない」
三田さんが「そういうことか」と言った。複雑な顔だった。しばらく黙ってから「法案のこと、どう思う」と聞いてきた。
「わかりません。賛成側の言っていることも、間違いではないと思っています」
「でも続けるんでしょ」
「今日のライブが終わったら、また考えます」
三田さんが少し笑った。「そういうとこだよな、お前は」と言いながら、コーヒーを二つ持ってきた。直樹は受け取った。スタジオの小さな窓から、外を走る自動運転の車が見えた。車の側面に広告が流れていた。AIが生成した音楽のプロモーションだった。流れるような映像で、完璧に整ったメロディが流れていた。
直樹はコーヒーを飲んだ。ギターのチューニングを確認した。
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午後、ライブ会場に向かいながら、直樹は前の転生の記憶を整理した。
前世の中倉直人はコンサルタントだった。分析、資料作成、提案。それがAIに置き換えられていくのを見て、「合理的だ」と思って自分から手を引いた。効率が高い方が勝つのは当然だと思っていた。
今の直樹は、効率の悪い側にいる。
AIが一秒で生成できる楽曲を、直樹は数週間かけて作る。AIが完璧に処理した音源を、直樹は生のギターと声で不完全に再現する。客は二十人か三十人しか来ない。収入は月に数万円程度で、アルバイトと合わせてなんとか暮らしている。
前世の自分が見たら「意味がわからない」と言うだろう。
ただ、今の直樹には、やめる理由がわからなかった。師が「患者が来るからやめる理由がない」と言っていた。今の直樹もそれに近い。来てくれる人間がいる。その人たちの前で弾く。それだけのことだ。
前の二回の転生を通じて、少しずつわかってきたことがある。目の前の人間を見ること。師から学んだ。カールと言葉なしで繋いだ三日間で学んだ。師を背負って走った夜も。今回は同じことを、音楽という形でやっていくのかもしれない。まだわからないが、そういう気がした。
視界の右上の数字を確認した。70.00%。変わらない。
ライブ会場の看板が見えてきた。小さな地下の箱だった。窓に「本日 直樹 LIVE」と手書きの紙が貼ってあった。電子看板ではなく、手書きだった。オーナーがそこにこだわっていた。
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楽屋で準備をしながら、直樹はチューナーを見た。
今夜は何のために弾くのか、と考えた。前の二回の転生では、動く前に「なぜ動くか」という問いに答えられないことが何度もあった。それでも動いた。今回も同じでいい、という気がした。
理由は後からついてくる。まずは目の前のことをやる。
舞台に出る前に、ギターを一度鳴らした。音が楽屋に広がった。どこかの端末で流れるAIの音楽とは違う。鳴らした自分の呼吸と指の温度が混じっている。うまいかどうかは関係ない。今ここにある音だった。
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実際に舞台に出ると、客が見えた。
地下の会場は天井が低い。照明が直樹に向いているが、前列の顔が見えた。何度か来てくれている五十代の女性が、いつもの席に座っていた。隣に誰かを連れてきていた。初めて見る顔だった。後ろの方に若い男が一人、壁にもたれて立っていた。初めて来た客だろう、と直樹は判断した。
一曲目を弾き始めた。
音が広がった。地下の箱の天井が低いぶん、音が戻ってくるのが早い。AIのライブ配信とは違う密度があった。完璧ではない音だった。指が弦を押さえるたびに、微妙なずれが出る。それが消えない。消えないまま続ける。
八曲が終わったとき、拍手が来た。二十三人分の拍手は小さかった。それでも止まなかった。
直樹はギターを下ろした。前列の女性が目を細めていた。初めて来た後ろの男がまだ拍手をしていた。会場の天井の低さが、音を近くに押し込めていた。遠くに届かせる音ではなく、そこにいる人間の間で鳴る音だった。
この感覚を言葉にしろと言われても難しい。ただ、今日弾いて良かった、という感覚はあった。三曲目の崩れも、六曲目の高音の濁りも、今夜この会場で鳴った音だった。完璧ではなかった。来週もまたここに来て、また同じように弾く。それだけが、今の直樹の予定だった。
視界の右上を確認した。70.00%。変わらない。ただ、今日の拍手は確かに止まなかった。
次話:第35話「お前の音楽に、社会的な意味はあるか」
ライブの後、楽屋に見知らぬ男が来ます。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!




