第30話「師が斬られた夜、感情が先だった」
お読みいただきありがとうございます。夜、師が戻らなかった。直之介は路地に出ました。何をするかより先に、体が動いていた夜の話です。
その夜、直之介は師と一緒に帰り道を歩いていた。
師が遅くまで往診に出ていた。直之介が迎えに行って、二人で戻る途中だった。夜の京都は暗い。提灯の光が届かない路地が多い。直之介は習慣で周囲の気配を読みながら歩いていた。師はいつも通り、往診先で気になったことを話しながら歩いていた。患者の容態のこと、使った薬のこと。直之介は「はい」と「なるほど」を交えながら聞いていた。
路地の角を曲がったとき、気配が増えた。
暗がりから四人が出た。
刀を持っている。着物の紋様が攘夷派のものに見えた。月明かりで顔の一部が見えた。面識はない。ただ、どういう種類の人間かはわかった。
「堂島玄斎だな」とリーダー格の男が言った。「外国の医者に知識を渡しているそうだな」
師が立ち止まった。直之介も止まった。
「知識は渡していない。医術の交流をしているだけです」と師は静かに言った。
「同じことだ」
直之介は師の一歩前に出た。四人の位置を確認した。リーダー格が中央、二人が脇、一人が後ろに回ろうとしている。後ろは壁だ。逃げ道は正面だけ。
「話し合いで解決できるなら」と直之介は言った。
「話などない」とリーダー格は言った。「お前は書生か。邪魔をするなら一緒に斬る」
「師は何もしていません」
「させない、という話だ」
交渉の余地がないのはわかった。前の転生で、こういう場面には何度か出会った。言葉が届かない相手には、最短で終わらせることしかない。ただ四人に対して、師を背後に守りながら全員を止めるのは、今の体でも厳しい。
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男が動いた。
直之介が前に出た。一人目を止めた。二人目が来た。かわした。ただ、三人目が師の方を狙った。直之介の動線上になかった。
師が斬られた。
声はなかった。師がよろけた。直之介が振り向いた。師の着物に血が滲んでいた。肩から胸にかけて。
「逃げろ」と師が言った。声が低かった。「直之介、逃げろ」
足が動かなかった。
逃げろ、という言葉は聞こえた。逃げることは、物理的に可能だった。三人はまだ直之介に集中していない。師が倒れた方向を見ている。今ならまだ走れる。
計算が来る前に、体の状態が決まっていた。逃げたくない、という感情が、何かを考える前に先にあった。計算したわけではない。理由を並べたわけでもない。ただ、逃げたくなかった。師が倒れているのが見える。その状態で離れる気に、なれなかった。
三人がまだいた。
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前世の感覚が全開になった。
昨日や一昨日ではなく、前の転生の終盤の感覚だった。すべての動きが見えた。三人の足の位置、刀の角度、次の踏み込みの重心。それが一瞬で入ってきた。
一人目が来た。刀が走った。一歩入って腕を取った。方向を変えた。倒れた。二人目が声を上げた。向かってきた軌道を見た。外した。腰に入れた。崩れた。三人目が止まった。
止まった相手は一番簡単だった。
四人が地面に転がった。
直之介は師の下に走った。師がしゃがんでいた。着物を開いて傷を確認した。深くはない。ただ出血が多い。放置すれば危ない。
「歩けますか」
「……歩ける」と師は言った。声が苦しそうだった。「歩けるが」
「背負います」
師が何か言いかけた。直之介はすでに膝を折っていた。師を背負った。思ったより軽かった。師の体が熱かった。
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走りながら、直之介は自分の状態を確認した。
頭が静かだった。判断は動いている。診療所までの道順、途中の明るい路地、誰かとぶつかった場合の対処。それは動いている。ただ、感情が先に来た、という事実が、走りながらもはっきりあった。
「死なせない」
声に出ていた。師への言葉なのか、自分への確認なのかわからなかった。ただ、声に出た。前の転生で、カインのそばにいるときに似た感覚だった。後ろに誰かがいたら前に出る。それが今は、背負って走る形になっていた。
前の世界の自分だったら、この場面でどう動いていたか、と走りながら思った。
計算していた、と思う。逃げるべきか、助けるべきか、リスクを並べて、答えが出るまで動かなかった可能性がある。前の転生の序盤も、そういう場面があった。動く前に理由を確認する習慣が、長い時間をかけて少しずつ変わった。今夜は、逃げたくないという感情が、計算より先にあった。計算が追いついていなかった。
それが悪いとは思わなかった。
ルキアが「感情を先に動かしてみたら」と言っていた。前の転生の最後に、そう言われた。今夜、計算より感情が先に来た。意図してそうしたわけではなかった。ただ、気づいたらそうなっていた。これが「感情を先に動かす」ということかどうかは、まだわからない。ただ、今夜の体の決定には迷いがなかった。それは確かだった。
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診療所に着いた。
直之介が師を寝かせた。道具を出した。医術の知識は師から教わってきたものが少しある。すべては対処できないが、応急の手当はできる。傷を確認した。思ったより浅かった。ただ出血が多い。師が「大げさにするな」と言った。「大げさじゃないです」と直之介は答えた。「安静にしていてください」
「自分の体は自分でわかる」
「診てみないとわかりません」
師が「お前、医術を学びに来てたのか、俺を怒鳴りに来てたのかわからないな」と言った。声に力が戻っていた。直之介は「両方です」と言って手当を続けた。
傷の処置を終えて、師を休ませた。
師が「ありがとう」と言った。短い言葉だった。師がこれほど素直に礼を言うのは、初めてだった。直之介は「はい」とだけ答えた。
師が目を閉じる前に「お前は変な書生だ」と言った。「最初からそう思っていたが、今夜はっきりした」
「そうですか」
「なぜ逃げなかった」
直之介は少し考えた。
「逃げたくなかったので」
師が「そうか」と言った。それで目を閉じた。しばらくして、呼吸が深くなった。眠ったらしかった。
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部屋に戻って、直之介は壁にもたれて座った。
手が震えていた。今更だった。戦っている間は震えなかった。終わってから来た。
前の転生でも、こういう後から来る感覚があった。廃坑でオーガ種を倒した後、手が震えた。あのときは「戦いが終わったから」来た、という感覚だった。今夜は違う。震えの中に、師の体が熱かった、という感触が残っていた。あれが消えない。
視界の右上を確認した。53.00%。変わっていない。
今夜動いたのは「動かなければならなかったから」だろうか。「動きたかったから」だろうか。境目がわからなかった。ただ、逃げたくなかったのは確かだった。それは自分で選んだものだったのかもしれない。
師に「なぜ逃げなかった」と聞かれて、「逃げたくなかったので」と答えた。師は「そうか」とだけ言った。それが咎めなのか認めなのかわからなかったが、もう一度聞かれても同じことを言ったと思う。それが今夜の自分の事実だった。
腕が重かった。肩が痛い。走るときに師の重さで体のどこかが歪んだ気がする。明日確認する。師の容態も確認する。それだけ考えて、目を閉じた。体が先に眠った。
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翌朝、師は熱を出していた。
傷は浅かったが、夜の冷気に当たったせいで熱が上がっていた。直之介が水を換え、薬を煎じた。師が「大げさだ」と言い、直之介が「大げさじゃないです」と言う、昨夜と同じやり取りが朝から続いた。ただ師の声に力が戻っていたので、直之介はそれを良いことだと判断した。
師が落ち着いてから、直之介は外の様子を確認した。昨夜の男たちが診療所の場所を知っているとすれば、また来るかもしれない。そう考えると、しばらくここを離れることはできない、という結論になった。
次話:第31話「籠城。刺客は毎晩来た」
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