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第29話「知っていることが、何の助けにもならない」

お読みいただきありがとうございます。一ヶ月ぶりに来た沖田の様子が気になりました。


沖田が診療所に来たのは、一月ぶりだった。


 今回は咳のためだった。診察室に入ってきた沖田の顔色は悪くなかった。立ち方も変わっていない。ただ、座る前に一度咳をした。抑えた咳だったが、師がそれを聞いていた。


「また来てしまいました」と沖田は言った。


「どのくらい続いていますか」と師が聞いた。


「二週間ほどです。稽古の疲れかと思っていたんですが、止まらないので」


「他に何かありますか。夜、汗をかくとか」


 沖田が少し考えた。「そういえば、少し。寝間着が湿っていることが何度か」


「食欲は」


「普通です。飯はよく食べています」


 師が丁寧に診た。直之介は端に座って記録の準備をしていた。


 沖田が直之介を見た。「また書生がいるな」と言った。前と同じ軽い口調だった。「あの空き地で稽古したやつか」


「はい」


「その後、土方に会いに行ったと聞いた」


「呼ばれたので」


「呼ばれたら行くのか」と沖田は言った。少し笑った。「ただ者ではないとは思っていたが」


「ただの書生です」


「そうじゃないと俺は思っているが、まあいい」


 師が「沖田さん、少し深く息を吸ってもらえますか」と言った。沖田が吸った。また小さく咳が来た。今度は一度だけではなかった。師の眉が少し動いた。直之介はそれを見た。


「音が少し変わりましたね」と師は言った。穏やかな言い方だったが、言葉の中に何かあった。


「そうですか」と沖田は言った。表情は変わらなかった。「前と違いますか」


「少し、低くなった気がします」


 沖田が「そうか」と言って、特に動揺した様子を見せなかった。それが自分の体のことであるのに、どこか遠い話を聞くような顔だった。


---


 診察が終わった。


 師が薬を出した。「しばらく安静にしてください」と言った。「稽古は控えた方がいい」


「そうはいかないんですが」と沖田は言った。笑いながら言った。


「わかっています」と師は言った。「それでも言うだけは言います」


「先生はいつもそういう言い方をしますね」


「そうですか」


「はい。言うだけは言う、と。そういう言い方をしてくれると、こちらも動きやすい。強制じゃないから」


 師が少し間を置いた。「怒らないのかと思っていました。稽古を控えろと言われると、怒る人が多いので」


「怒っても体が変わるわけじゃないですから」と沖田は言った。「先生が心配しているのはわかっています。ありがとうございます」


 薬を受け取って、沖田が帰り際に直之介を見た。


「また稽古するか」


「お体の具合が良くなったら」


「今がいい、という意味でもあったんだが」と沖田は言った。少し考えるような顔をした。「お前、あの路地でいつも一人で走っているな。俺も最初そうだった。師範に言われるより、一人でやっている時間の方が、体に入る」


「そうですか」


「まあ、いい。また来ます」


 表戸から出た。足音が小さくなった。


---


 師が縁側に出た。直之介も続いた。


 しばらく黙っていた。路地の向こうで子どもが走る声がした。


「お前、何か言いたそうな顔をしているな」と師は言った。


「そんな顔をしていましたか」


「している」


 直之介は少し考えた。


「あの咳は、重くなりますか」


 師がゆっくり頷いた。「可能性は高い。ただ、今の段階ではまだわからない。安静にして、食事を整えれば落ち着く人間もいる。稽古を続ければ早くなるかもしれないし、あの人の体が強ければ長く保つかもしれない。今はわからない」


「落ち着かない人間もいる」


「いる」


「師はどう見ていますか」


 師がしばらく黙った。「楽観はできない」と言った。「それ以上は言えない。今の段階では」


 それ以上は、どちらも言わなかった。夕方の空気が少し冷えていた。遠くで風が鳴っていた。


「師は」と直之介は少し間を置いてから言った。「あの人が今後どうなるか、わかっていてもどうにもできない、ということはありますか」


 師が直之介を見た。何を聞いているのか測るような目だった。


「ある」と師は言った。「医者はそういうものだ。わかっていてもできないことがある。それでもできることをする。それしかない」


---


 夜、直之介は部屋で前世の記憶を確認した。


 沖田総司。天才剣士。一番隊組長。結核を患い、慶応四年に亡くなる。


 今は文久三年だ。あと数年の話だ。


 知っている。大きな流れを知っている。前世の記憶がそれを教えている。


 だから何だ、と直之介は思った。


 知っているからといって、止められるわけではない。今の時代に結核の有効な治療法はない。師が知っている限りのことをするだろう。それ以上はできない。直之介には、なおさら何もできない。前世の知識に現代医療の断片はあるが、薬もなければ設備もない。知識は知識のままで、ここでは何も変えられない。


 前の転生でも似た感覚があった。歴史の流れがわかっている。この街が今後どうなるかの大きな筋は読める。池田屋がいつか来る。戊辰の戦が来る。多くの人間がその流れに呑まれる。それがわかっていても、流れそのものを変える手段はない。


 知識があることと、何かができることは、違う。


 前の転生でも、似たことがあった。


 農村にゴブリンが来るとわかっていても、来る前には何もできなかった。来てから対処した。来ることを知っていたとして、来る前に動けたかというと、動けなかっただろう。知識は準備にはなるが、流れを止めるものにはならない。それはこの転生でも同じだった。


 沖田が今日診察室で笑っていた。師に「言うだけは言う、という言い方をしてくれると動きやすい」と言っていた。笑い方が明るかった。自分の体のことを話しているのに、どこか遠い話をするような顔で、それでも笑っていた。やりたいことがある人間の顔だった。


 今日の顔が、記憶の中の名前と一致しなかった。


 記録に残る沖田総司と、今日笑っていた沖田総司は、同じ人間だ。ただ、目の前で見た顔の方が重かった。記録は記録で、今日のあの笑い方は今日だけのものだった。それがいつかなくなることを知っていても、今日の笑い方の重さは変わらなかった。


 師の言葉が頭に来た。「わかっていてもできないことがある。それでもできることをする」


 師は知らなくても動ける。直之介は知っていて、動けない。何が違うのかは、今は言葉にできなかった。ただ、何かが違うことはわかった。


 知識は、人間の顔より軽い。それだけはわかった。記録に名前があっても、今日笑っていた顔の重さには及ばない。前の転生でもそうだったかもしれない。カインが笑った瞬間、エラが礼を言った瞬間、そういう場面の方が記録より重かった。それはここでも変わらない。


 ただ、今日の沖田の顔は、明日も同じ重さを持つだろう。それが続く間は、今できることをするしかない。師の言った通りだった。


 視界の右上を確認した。53.00%。変わらない。


 ただ、何かが少し動いた気がした。数字ではなく、その前にあるもの。うまくつかめなかった。


---


 翌朝、走り出したとき、師が縁側から「昨日の話、お前が心配していたのはわかっている」と言った。


「はい」


「心配するのは悪いことじゃない」と師は言った。「ただ、今できることをするだけだ。それしかない」


 直之介は「わかりました」と答えて、走り始めた。


 躓かなかった。石畳が続いた。路地の向こうに朝の光が入っていた。走りながら、今日できることを考えた。記録をつける。師の診察を手伝う。カールが来れば仲立ちをする。沖田のことは、今は何もできない。それだけわかっていれば、今日は動ける。


 そういう考え方を、師から少しずつ学んでいる、という気がした。


次話:第30話「師が斬られた夜、感情が先だった」

計算よりも先に、体が動いた夜の話です。続きが気になった方は、ぜひブックマークや【☆☆☆☆☆】評価で応援いただけると嬉しいです!


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