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第3話「真っ白な空間と、うるさい女神」

お読みいただきありがとうございます。真っ白な空間に現れたのは、外見年齢二十代前半の女神・ルキア。「あなたの魂、満足度0%よ」

白かった。


 目を開けると、どこまでも白い空間だった。床があるのか壁があるのかもわからない。光源もない。遠近感もない。影もない。ただ、白い。距離の感覚がないから、どこまで続いているかもわからない。無限に広がっているような、それとも自分を囲む薄い殻の内側にいるような、どちらとも判断できない白さだった。


 直人はまず自分の状態を確認した。身体がある。立っている。痛いところはない。空腹感もない。のどの渇きもない。最後の記憶は、ソファからずり落ちて床に横になったことだった。視界がぼやけて、意識が遠くなっていった。その後の記憶がない。


 死んだか、と思った。


 でも死んでいる感じがしなかった。死んでいる感じが何かはわからないが、少なくとも今は思考が動いている。自分の手のひらを見る。ちゃんとある。五本指がある。皮膚のしわも、爪の形も、見慣れた自分のものだった。腕を動かすと動く。足を踏み出すと踏み出せる。機能している。少なくとも、生きているときと変わらない感覚だった。


 とすると、ここはどこだ。


「やっと起きた」


 声がした。


 正面に、女がいた。気づかなかった。距離にして三メートルほど先、白い空間に一人用の椅子を置いて脚を組んで座っている。外見は二十代前半に見えた。服装は——うまく説明できないが、現代日本のものではなかった。白を基調にした、どこか様式的なデザインで、袖の長い上着のような何かを着ている。顔は整っているが、今この瞬間の表情は露骨に面倒くさそうだった。手元には薄い板状のものを持っていて、指で何かを操作していた。


「あなたが中倉直人ね。死に損ないの」


「死んでないのか」


「まだよ」と女は言った。「でも死んでもいいし、生かしてもいい。それはあなた次第」


 直人は周囲をもう一度見回した。白い空間。椅子に座った女。それ以外には何もない。床の感触はある。立っていられる。現実かどうかという問いは、今は意味をなさないと判断した。情報が揃っていない状況で判断を急いでも、間違いが増えるだけだ。


「ここはどこだ」


「天界。私の管轄。ざっくり言うと」


「天界」


「そう」


 直人は少し考えた。天界という言葉を文字通り受け取るかどうかの判断材料がなかった。否定する材料もなかった。嘘をついているようにも見えなかったし、嘘をついてどうなるかという動機も不明だった。とりあえず保留にした。


「あなたは?」


「ルキア。この場所の管理担当。あなたの案件の担当でもある」


「案件」


「そう。で、本題に入るわよ」


---


「【満足度ゲージ】、というものがあります」


 口調が丁寧語に変わった。


「急に変わった」


「説明の時はこうなの。黙って聞いて」


 ルキアが手元の板を操作すると、直人の視界右上に数字が現れた。


 0.00%。


 数字だけがそこにあった。小さくはなかったが、主張もしてこない。ただ視界の端に常駐している感じだった。何も積み上がっていないことを、数字が静かに告げていた。


「それが【満足度ゲージ】の現在値です。これを100.00%にした状態で死ぬことが、達成条件になります」


「達成したらどうなる?」


「消えます。成仏、と言い換えてもいい」


「消えたくないんだが」


「達成できればの話だから、今は気にしなくていい」


 ルキアは続けた。説明の口調は淡々としていた。感情が乗っていない。慣れている人間の話し方に似ていた。


 0.01%でも足りなければ、記憶をそのまま保持した状態で次の人生へ強制転生させられる。転生先の世界はその都度異なる。繰り返す回数に上限はない。ゲージが上がる条件は一つだけ——直人の魂が「これは俺にしかできない」「俺が自分の意志で選んだ」と深く実感した瞬間に、自動で数値が上昇する。ルキアが操作できるのは「減らすこと」と「ロックすること」だけで、増やすことはできない。慢心したり思考停止に陥った場合は、介入して引き下げることもある。


「以上です」


 直人は一拍置いた。


「質問がある」


「どうぞ」


「上がるかどうかは、誰が判定するんだ」


「魂が判定します。私ではない。あなた自身の魂が、本当に実感したかどうかを自動で検知する仕組みです。偽れません」


「では減らすのはどういう基準で」


「慢心、手抜き、思考停止。あなたが楽をしようとしたと判断した場合、私が介入します」


「恣意的だな」


「そうよ」とルキアは言った。丁寧語が終わった。「気に入らない?」


「文句を言っても仕様は変わらないだろう」


「素直ね」


 ルキアがわずかに目を細めた。値踏みするような視線だった。


「それ、仕様書か」と直人は言った。


「そう呼んでもいい」


「なんで俺がそれをやらされるんだ」


「選ばれたから」


「理由になってない」


「理由は次に話す」


 直人は視界の右上を見た。確かに数字がある。0.00%。今まで何十年と生きてきたのに、ゼロから始まるらしかった。「俺にしかできない」「俺が選んだ」——そういう実感を持てたことが、自分にどれだけあっただろうかと考えた。メーカーの頃も、コンサルの頃も、何かを選んでいたつもりにはなっていた。でもそれが「俺が選んだ」という感覚だったかと言われると、すぐには思い出せなかった。それ自体が答えのような気もした。


---


「それと」とルキアが続けた。「せっかくだから一つ言っておくわよ」


 椅子から立ち上がり、直人の正面に来た。少し見上げる位置になった。小柄だ。ただ、圧がある。目が据わっている。女神というより検察官に近い雰囲気だった。


「あなた、AIにできないことから逃げ続けたでしょう」


 直人は答えなかった。間違いだとは思わなかった。ただ、この距離で断言される内容としては、少し重たかった。


「飲み会も、感情的なケアも、泥臭い人間関係も、全部切り捨てた。AIにできないからって価値があるとは限らない——そういう判断をして、そういう生き方をしてきた」


「間違ってないと思うが」


「間違ってないかどうかの話はしてない」とルキアは言った。「ただ事実として、あなたは自分の意志で何かを選んだことが、ほとんどない。AIができないから嫌、AIができるから意味がない。ずっとAIを基準に動いてきた。自分の軸がない人間は、満足して死ねない。だからゲージが上がらない」


 直人は黙った。


 反論しなかった。AIが使われるようになって以降は確かにその通りだと思ったからだ。会社にいたとき、退職を決めたとき、部屋に篭もっていたとき——ずっと何かを「基準にして」動いていた。AIができるかできないか。それ以外の判断軸を、自分が持っていたかと言われれば、持っていなかった。AIに渡せる仕事は渡した。渡せない仕事はやりたくなかった。その結果、やりたいことも残らなかった。そのことは、わかっていた。わかっていて、変えられなかった。


 ただ、正確であることと素直に受け入れることは、少し別の話だった。変わり方がわからないのではなく、変わる理由がまだ見えていない。言われたからといって、今すぐ「じゃあ変わろう」とはならない。そういう簡単な話ではなかった。


「そのくせ、ゲージの上げ方は教えてあげる。皮肉でしょう」


 ルキアが口の端をわずかに上げた。笑ったのかどうかよくわからない表情だった。


「……うるさい」と直人は言った。それ以上の言葉が出てこなかった。言い返せなかったのではなく、言い返す気力が削がれていた。正確すぎる指摘には、反論より沈黙のほうが正直だった。


「ちゃんと聞いてたのね」とルキアは言った。「まあいい。続きを話しましょう。まだ聞いてないことがあるでしょう」


 直人はルキアを見た。面倒くさそうな顔は変わっていない。ただ、最初よりも少しだけ——興味があるような視線になっていた気がした。気のせいかもしれなかった。


 直人は少し考えた。


 確かに聞いていないことがあった。なぜ俺なのか、ということだ。選ばれたという言葉の意味も、この場所の「管理担当」がなぜ個人的にこの案件を引き受けたのかも、まだ何も聞いていない。「理由は次に話す」と言ったルキアが、まだ話していない。


次話:第4話「ゲージってどういう仕組みなんだ」

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