第25話「止まらないな、お前は」
お読みいただきありがとうございます。沖田が棒を二本持ってきて「確認だ」と言いました。稽古ではない、ただの確認です。
沖田が診療所に再び来たのは、その四日後だった。
今度は患者としてではなく、薬の受け取りに来た。前回、師が処方した薬が効いたと言った。咳が落ち着いた、と。顔色は悪くなかった。どこかにしなやかさがある立ち方で、廊下を通ると空気が少し変わる感じがした。
「先生に礼を言いたかった」と沖田は言った。「外出ついでに寄りました」
師が「効いたなら良かった。無理はしないように」と言った。
「稽古を控えとけということですか」
「それが一番効きます」
「そうはいかないんですが」と沖田は言って笑った。師が「わかっています。それでも言うだけは言います」と返した。やり取りの速さから、二人がすでにある程度わかり合っているのが見えた。
師が薬を用意している間、沖田が廊下に立って縁側の方を見た。直之介が座って記録を書いているのを見た。
「書生か」
「はい」
「今朝、路地で走っていたな」
直之介は少し考えた。東の路地を使っていた。確認されていたとは思っていなかった。
「見ていたんですか」
「たまたま通りがかった」と沖田は言った。「躓かなくなったな」
「まだ時々躓きます」
「一ヶ月前よりはだいぶましだ」と沖田は言った。「路地の向こうで倒れていたのを一度見た」
直之介はそれが一ヶ月前だとわかった。あのとき朝露で足を滑らせて、石畳に手をついた。見られていたとは思っていなかった。
「なぜ声をかけなかったんですか」
「怪我はなさそうだったし、すぐ立ち上がったから」と沖田は言った。「声をかけるより、そのまま走り続ける方が良い、という人間もいる」
「そうでしたか」
「お前はそっちだと思った」
師が薬を持ってきた。沖田が受け取った。
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帰る気配があった。
「少し時間があるか」と沖田が直之介に言った。
「記録の途中ですが」
「師、少し借りていいですか」
師が「どうぞ」と言った。あっさりしていた。
裏の空き地に出た。沖田が診療所の軒下に立てかけてあった細い木の棒を二本見つけた。一本を直之介に渡した。
「何をするんですか」
「確認だ。稽古というほどじゃない」
直之介は棒を持った。前の転生で身につけた感覚が戻ってきている今なら、どのくらい動けるか。ただ、相手は沖田総司だった。前世の記憶に、その名前の意味がある。天才、という言葉が当てはまる数少ない人間の一人として記録されている。
「力を抜け」と沖田は言った。「入口に全部出ている」
直之介は少し力を緩めた。
次の瞬間、棒が来た。
見えた。軌道が見えた。ただ、体が追いつかなかった。反応が半拍遅れた。腕で受けたが、押し込まれた。足が後ろにずれた。
「止まった」と沖田は言った。淡々とした声だった。「そこで止まるか」
「対応できなかった」
「それでも体が動けばいい」と沖田は言った。「崩れたまま返せる。止まったら終わりだ」
もう一度やった。今度は受けなかった。流した。体勢は崩れたが、下がらなかった。棒を前に向けたまま体を入れ直した。
「それでいい」
五回やった。五回とも沖田に当てることができなかった。棒が来る角度は毎回違った。同じ入り方をしなかった。速さよりも、読みにくさがあった。直之介が対応の型を作ろうとすると、次は別の角度から来た。型を当てさせない動き方だった。
「お前、止まらないな」と沖田は言った。感心とも呆れともとれる口調だった。「五回とも押されたのに、前に出る」
「後退しても意味がないと思っています」
「言葉じゃなくて、体がそうなっている。言い訳なしにそれが出るのは珍しい」
沖田が棒を下ろした。
「もう一度やるか」と沖田は言った。「今度は俺が先に動かない。お前が来い」
直之介は踏み込んだ。速く動こうとした。三歩で潰された。沖田が一歩動いただけで、直之介の棒が届かなくなっていた。どこに体重があったかすら見えなかった。
「力が先に来ている」と沖田は言った。「力は体の後ろに置いておけ。出すのは当たる瞬間だけでいい」
直之介は黙って聞いた。前の転生でも似たことを言われた記憶がある。ただ、この人間に言われると、言葉の重さが違った。実際にそれを体でやっている人間から言われているからだった。
もう二回やった。二回とも及ばなかった。ただ、最後の一回は半拍だけ長く保てた。
空き地に風が入ってきた。師の診療所の裏は、午後になると日が陰る。沖田の羽織が少し揺れた。
「お前、道場には通っているか」と沖田は聞いた。
「近くの道場に素振りだけ教えてもらっています」
「剣術じゃなく素振りだけ、というのが変わっている」
「師範に受けてもらえなかったんです。書生だからということで」
「それで素振りだけになったのか」と沖田は少し笑った。「そういう経緯で続けているやつは珍しい。普通は諦める」
「路地を走るより入口が広かったので」
沖田が「なるほど」と言った。「お前の考え方は、目的から逆算しないな。使えるものを使う、という順番だ」
「そうかもしれません」
「それでいい」と沖田は言った。「形から入るやつは、形が崩れると動けなくなる。お前は形を気にしていないから、崩れても前に出る」
直之介はその言葉を聞いた。師の「目の前の患者が死にそうだったから」という言葉と、何かが似ていた。形より、目の前のものを見る。それが先にある人間と、形を守ることが先にある人間は、崩れたときの動き方が違う。今日のこの稽古で、それが少しわかった気がした。
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沖田が棒を置いた。
「体の動き方が、十八の人間に見えない」と沖田は言った。「どこで覚えた」
「見よう見まねです」
「見よう見まねであれが出るか」と沖田は少し笑った。「まあ、続けろ」と言った。
沖田が帰り際に少し咳をした。
一度だけ。短い。本人は気にしていない様子だった。「また来ます」と師に言って、裏口から出た。
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直之介は見送ってから、空き地にもう少し立っていた。
前世の記憶に、沖田総司という名前がある。天才剣士。二十代で結核を患い、戊辰戦争のさなかに亡くなる。今ここにいる、木の棒を持って笑っていた人間が、その名前と一致する。
知っている。大きな流れを知っている。それが今この瞬間に何かを変えるかというと、変えない。
今日の沖田は笑っていた。「前の転生でもそうだったか」と口から出かけた言葉を、別の言葉に変えた。何を隠しているかは、直之介には関係ない。ただ、あの速さは本物だった。前の転生の終盤に身につけた感覚をもってしても、まるで追いつかなかった。
記録に残る剣士、という存在が、今日初めて実感を持った。記録と実感は、別物だった。
それがわかったことが、何かになるかどうかは、まだわからなかった。
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診療所に戻ると、師が「どうだった」と聞いた。
「まったく歯が立ちませんでした」
「そうか」と師は言った。少し間を置いた。「沖田さんは強い。負けてどうするかで人間が出る。お前はどうした」
「また来ることにしました」
師が「そうか」と言って薬棚に向かった。「明日は患者が多い。早く寝ておけ」
「はい」
「あと——」と師は言った。振り向かないまま言った。「走っているのを沖田さんが見ていた、というのは知っていた。あの人はそういう人間だ。気になったものはしばらく観察する」
直之介は少し考えた。「師も観察していたんですか」
「そうかもしれない」と師は言った。それだけだった。
部屋に戻ってから、視界の右上を確認した。35.00%。変わらない。
ただ、何かが少し動いた気がした。数字ではなかった。何が動いたのかは、まだわからなかった。ただ、今日の稽古と、沖田のあの一言と、師の最後の言葉が、何か同じ方向を指している気がした。
次話:第26話「土方歳三に、試合を申し込まれた」
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