第22話「目の前の人間が死にそうだったからだ」
お読みいただきありがとうございます。師・堂島玄斎がなぜ蘭学を選んだのか。その問いから始まる話です。
診療所の仕事には、型があった。
患者が来る。師が診る。直之介は道具を用意し、湯を沸かし、記録をつける。記録の内容は師の指示通りに書く。何を書くべきかは、言われる前にわかることが増えてきた。ただ、先走らなかった。まずここでの流儀を覚える方が先だった。
師の診察を見ながら、直之介は観察した。
手際が早い。どこを見ているかが一目でわかる。患者の顔を見て、次に手を見て、呼吸を確認して、それから口を開く。「どこが痛いですか」と聞く前に、どこが痛そうかをすでに判断している。前の転生で身につけた観察の習慣と、向きは同じだった。ただ、師の観察は人間の体だけに向いていた。
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その日の午前中に、七十近い老婆が来た。腰の痛みだった。
師が座らせた。背中を見た。腰に手を当てた。老婆が「痛い痛い」と言い続けた。師は「はい、はい」と言いながら手を動かした。直之介は端で見ていた。腰の筋肉の張りがどこから来ているか、師が順番に確認しているのがわかった。
「どのくらい前からですか」
「三月ほど。畑仕事が始まってからずっと」
「寝るときも痛みますか」
「朝が一番ひどい。起き上がれないこともある」
師が少し黙った。それから「仕事を減らした方がいい」と言った。老婆が「そんなこと言っても畑が」と言った。師が「今日は薬を出しますが、これは一時しのぎです。休まないと治らない」と言った。老婆が黙った。師が「難しいのはわかっています。できる範囲で」と付け加えた。
老婆が帰った後、記録をつけながら直之介は考えた。
師が処方する薬は適切だった。ただ、それ以上のことを師はしていた。症状を聞くだけでなく、いつから、何が原因で、どういう生活の中で痛みが出るかを聞いていた。症状だけを見れば薬を出して終わりだが、師はその人間ごと診ようとしていた。
「何か言いたそうだな」と師が言った。
「師は患者によく話しかけますね」
「そうか?」
「症状以外のことも聞いている。生活のことを」
「そうしないと、原因がわからないことがある」と師は言った。「体の症状は、暮らし方から来ていることが多い。症状だけ見ていると、その場しのぎにしかならない」
直之介はそれを聞いて、すぐには言葉にできないものが引っかかった。何が引っかかっているのか、午前中はわからなかった。
昼前に今度は子どもが来た。十歳ほどの男の子で、母親に連れられてきた。熱があると言った。師が顔を見て、喉を確認した。「夏の疲れが出ているだけです。水をよく飲ませて、今日は休ませてください」と言った。母親が「薬は要りますか」と聞いた。師が「今は要らない。三日経って良くならなければまた来てください」と言った。母親が深く頭を下げて帰った。
子どもが帰り際に直之介を見た。何か言いたそうな顔だったが、何も言わず出ていった。
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午後、患者が途切れた。
師が縁側に出て茶を淹れた。二つ分。直之介も外に出た。夏の終わりかけの日差しだった。庭の端の草が伸びかけていた。どこかで鳥が鳴いていた。
「聞いていいですか」と直之介は言った。
「何だ」
「師は、なぜ蘭学を選んだんですか」
師がしばらく黙った。茶碗を持ったまま、庭を見ていた。
「難しい理由があると思ったか」
「わかりません。だから聞きました」
「簡単な理由だ」と師は言った。「目の前の患者が死にそうだった。俺が知っている方法では助からなかった。それだけだ」
直之介は何も言わなかった。
「別に蘭学が好きなわけじゃない。外国人に肩入れしているわけでもない。この時代にそれをやることの面倒は、わかっている。ただ、使える方法があるなら使う。そうしないと死ぬ人間がいた。それだけのことだ」
「危なかったことはないですか。攘夷派から」
「ある」と師は言った。あっさりと言った。「嫌がらせも受けた。石を投げられたこともある。それでも続けた。続けていたら、少しずつ人が来るようになった」
「なぜ続けられたんですか」
「患者が来るからだ」と師は言った。「来る人間がいる間は、やめる理由がない」
それで話は終わった。師が茶を飲んだ。直之介も飲んだ。庭の草が風で揺れていた。
庭に蝉の声がした。夏の終わりにまだ鳴いている。師が空を見ていた。直之介も少し空を見た。雲が西の方から出ていた。
「今日の午前、子どもが来ましたね」と直之介は言った。
「熱の子か」
「師は薬を出しませんでした」
「要らないから出さなかった」と師は言った。「薬は必要なときに出すものだ。出せばいいというものじゃない。余計なものを入れると、体が判断できなくなる」
「どこで判断するんですか、要るか要らないかを」
「見ればわかる」と師は言った。「長くやっていれば」
それ以上は言わなかった。ただその言葉が、朝の老婆の話と繋がっているのは直之介にもわかった。目の前の人間を見る。見続けていれば、わかるようになる。師の言っていることは、そういうことだった。
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夕方、直之介は一人で路地を走った。
師の言葉を反芻しながら走った。
前の転生で、自分が動くときに何を見ていたか。ゴブリンが来た。農村に脅威があった。レスが依頼した。パーティーが組まれた。それぞれの局面で「何が合理的か」を考えて動いた。それは間違いではなかった。効率的だった。全員を帰せた。
ただ、師の言葉と並べると、何かがずれた。
師は「目の前の患者が死にそうだったから」と言った。構造でも方針でもなく、目の前の人間だった。今朝の老婆の腰の痛みが何から来ているかを知ろうとした。今日の子どもに余計な薬を出さなかった。その人間に今必要なものだけを、その人間から読み取って返していた。
自分はどうだったか。
パーティーの全員を帰す、という方針を守った。戦略として動いた。それはできた。ただ、カインやエラやクルトの顔を、どれだけ見ていたか。目の前の人間として。合理的な判断の前に、その人間自体を。
今すぐ答えが出るわけではなかった。ただ、師の言葉に何かある、という感触だけが残った。前の転生での自分と、師の間に、どこかに違うものがある。それが何かはまだわからなかった。うまくつかもうとすると、すり抜けた。
走りながら転ばなくなってきた、とふと気づいた。三歩目で躓いていた一ヶ月前とは違う。体と頭が少しずつ繋がってきている。ただ、体の話と師の話は、種類が違うかもしれなかった。
視界の右上を確認した。35.00%。変わらない。
日が傾いていた。京都の夕方は早い。路地の向こうに、提灯の光が点り始めていた。どこかの家から飯の匂いがした。子どもの声がどこかから届いた。
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診療所に戻ると、師が翌日の薬の準備をしていた。
手伝った。黙って作業した。師も何も言わなかった。小さな紙に薬の名前を書いた。師の字は独特だった。崩した字で、直之介が補助して清書した。
「今日の記録は早かった」と師がぽつりと言った。それだけだった。褒めているのか確認しているのか、よくわからない言い方だった。
「ありがとうございます」と直之介は答えた。
師が「明日もカールが来る。頼む」と言った。「わかりました」と答えた。
薬の準備を続けた。二人の動きが、少しずつ噛み合ってきていた。師が次を出す前に直之介が紙を用意している。どちらも声に出さなかった。それで足りていた。
前の転生でカインやクルトと動いていたとき、言葉が減ってくると動きが合ってきた。今もそれに近いものがあった。師とのこの時間が、今は少し、落ち着いた。
灯りの下で、師の横顔が見えた。何かを考えているような顔ではなく、ただ作業している顔だった。朝の「目の前の患者が死にそうだったから」という言葉と、今この横顔が、同じ人間のものだった。特別なことを言ったという顔ではなかった。言ったことが本当にそのままの人間の顔だった。
直之介はそれをしばらく見てから、また紙に字を書いた。
次話:第23話「言葉が通じない男と、三日間」
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