第21話「今度は京都で、体が全然動かない」
お読みいただきありがとうございます。目が覚めたのは幕末の京都でした。頭ではわかっているのに、体がついてこない——新しい転生の最初の朝です。
目が覚めると、天井が違った。
板張りではなく、木の格子に和紙が張られた天井だった。障子の向こうから光が入っている。朝の光だが、前の世界とは違う角度から来ている。どこかで鳥が鳴いていた。
起き上がろうとして、体が重いことに気づいた。
妙な重さだった。前の世界の最後には老いた体だったが、そういう重さとも違う。単純に、体が慣れていない。どこに力を入れて動けばいいかの感覚が、頭の中にあるものと一致していない。
視界の右上を確認した。
【満足度ゲージ:35.00%】
引き継いだ。前の世界からの積み上げがそのまま来ている。ルキアの言葉通りだった。
着替えが枕元に置いてあった。紺色の着物だった。着方はわかった。前世の記憶に、江戸時代前後の日本の映像がある。テレビで見た時代劇の断片、書籍で読んだ所作の知識。手は動くが、袖の通し方に少し手間取った。
言葉も問題なかった。この時代の話し言葉は、前世で知っていた現代語とは少し違う。ただ、転生した体に「直之介としての記憶」が薄く残っていて、自然に出てくる。前の転生でも同じだった。体が覚えていることと、頭が持ち込んだ記憶が、少しずつ混ざり合っていく。
問題は言葉でも知識でもなく、体の動かし方だった。
---
廊下に出ると、師の声がした。
「直之介、起きたか」
堂島玄斎——この転生での師だった。五十代の男で、頭に白いものが混じっている。蘭学者で町の診療所を営んでいる。直之介がここに書生として来たのは一ヶ月前のことらしかった。記憶が断片的にある。転生したての体の中に、ぼんやりとした「直之介としての記憶」がある。師のことは知っている、という感覚。ただ詳細は薄い。これも前の転生と同じだった。
「おはようございます」
「今日も走ってくるのか」
「はい」
師が「なんで書生が走らなければならんのか」と言った。首を傾げた顔だった。「医術を学びたいと来たと思ったが、毎朝走り、道場で木刀を振っている書生を俺は知らない」
「体を整えた方が、頭の働きも良くなります」
「……まあ、邪魔はしないが」
師が診療の準備を始めた。ナオ——直之介は、草履を履いて外に出た。
---
走ろうとして、三歩目で躓いた。
石畳に手をついた。痛い。直之介の体は十八歳で、前世の記憶では体格の良い方だったはずだが、実際に動かすと感覚がまったく違う。頭の中に「こう動けば良い」という映像はある。ただ、映像と体の間に巨大な溝があった。
立ち上がって、もう一度走り始めた。
今度は十歩保った。それから左足の踏み込みが外れた。前の転生での動き方の癖が体に入っていない。ゼロから覚え直しだ。それはわかっていた。ただ、これほどとは思っていなかった。
前の転生の序盤に似ていた。あのときも、農民の体に前世のコンサルタントの感覚が乗っていた。今回はさらに差が大きい。前の世界で積み上げた体の使い方の記憶があるぶん、ギャップが目立つ。
路地を一周してから、近くの道場の前で立ち止まった。師から「あそこに頼めば素振りくらい教えてもらえるかもしれない」と聞いていた場所だった。門を叩いたら、中年の師範が出てきた。
「書生が何の用だ」
「素振りだけ、教えてもらえますか。武術の心得はありません。体を整えたいだけです」
師範が少し呆れた顔をした。「書生が体を整えるなら走ればいい」と言った。
「走ると躓きます」
しばらく沈黙があった。
「……まあ、入れ」と師範は言った。「邪魔だけはするな」
木刀を渡されて、素振りの形だけ教わった。十回振ったところで「力が全部腕に入っている」と指摘された。腰から使えと言われた。頭ではわかっていた。体がついてこなかった。
「また来ていいか」と聞いた。師範が「毎回下手くそなのを見せに来るなら止めん」と言った。それを許可と受け取って、礼を言って帰った。
「不思議そうな顔してますよ」
声がした。
振り向くと、通りの向こうに若い男が立っていた。羽織を着ている。二十歳前後に見える。顔が整っていて、動きが無駄なく軽い。立ち方だけで、剣を使う人間だとわかった。
「何かありましたか」と直之介は言った。
「いや、走り方が独特だったので」と男は言った。「どこか痛いのかと思いました」
「体が言うことを聞かないだけです」
「ああ、それはわかります」と男は言った。不思議な共感の仕方だった。「俺も最初そうでした。頭で動かそうとすると上手くいかない。体が先に動くようになるまで、時間がかかる。稽古してればそのうち繋がりますよ。では」
軽く頭を下げて、男は行った。名を聞く間もなかった。
ナオは少しの間、男が去った方向を見ていた。「体が先に動くようになるまで」という言葉が、妙に残った。前の転生で時間をかけて覚えたことを、この世界ではまた最初から積み上げ直す。それがわかっていても、何かがもったいなかった。ただ、もったいないという感覚自体が、新しい感覚だった。前の世界のナオは、こういう感情を持たなかった。
---
診療所に戻ると、水瓶を移動させる仕事があった。
大きな陶器の瓶を庭の端に動かすだけだ。前の転生では、これほどの重さを扱うことは普通にできた。腰を入れて持てばいい、と頭でわかっている。
動かした瞬間、バランスが崩れた。
瓶が傾いた。中の水が溢れた。ナオは踏ん張ろうとして右足が滑った。そのまま盛大に転んだ。水が全部こぼれた。
師が出てきた。ナオが水浸しの地面に座っているのを見た。
「……大丈夫か」
「はい」
「怪我はないか」
「ないです」
師が少し間を置いた。「お前、何か体に問題でもあるのか」と言った。心配しているのか呆れているのか、どちらでもあるような顔だった。
「慣れていないだけです」
「十八まで生きてきて慣れていない?」
「……鍛え直しているところです」
師が「不思議な書生だ」と言って中に入った。直之介は水浸しのまま、少しの間地面を見ていた。
---
夜、直之介は部屋で窓の外を眺めた。
京都の夜だった。提灯の光が遠くに見える。どこかから人の声がする。この時代に何が起きているか、直之介には知識がある。前世の記憶から来る知識だ。
文久三年。西暦で言えば千八百六十三年。
新選組が結成された年だ。攘夷と開国の対立が激化している。池田屋事件まで、あと一年ほどのはずだった。師の診療所のあるこの界隈にも、浪士の姿を見ることがある。昼間も、刀を持った男たちが通りを歩いていた。
歴史の流れがわかっている。誰が何をして、何が起きて、どういう結末になるか。その知識を持ったまま、この時代に生きている。
それは便利でもあり、やりにくくもあった。
便利な面:この街が今後どう動くかの大きな流れが読める。どの方向に危険が増すか、どこに逃げれば相対的に安全か。そういう判断材料が最初から手元にある。
やりにくい面:結末を知っている人間が目の前にいる。その人間が最終的にどうなるか、わかった上で関わることになる。ルキアの言った「それでも動けるか」という問いが、じわじわと意味を持ち始めていた。
ルキアが「先のことを知っている。誰がいつどうなるか、わかってしまう」と言った。その意味が、少しずつ実感になってきていた。池田屋が起きる前か、後か——いずれにせよ、この街はきな臭い。それだけは確かだった。
視界の右上を確認した。35.00%。変わっていない。
まだ何も始まっていない。体も動かない。知識だけがある。ここからどう動くかは、まだわからなかった。ただ、前の転生もそうだった。最初は農民の体で、ゴブリンが来るまで何もなかった。何かが来るまでは、できることをするしかない。
明日も走ろう、とナオは思った。こける可能性の方が高いが、それしかない。
次話:第22話「目の前の人間が死にそうだったからだ」
師がなぜ蘭学を選んだのか。その答えは、拍子抜けするほどシンプルでした。




