表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/34

第21話「今度は京都で、体が全然動かない」

お読みいただきありがとうございます。目が覚めたのは幕末の京都でした。頭ではわかっているのに、体がついてこない——新しい転生の最初の朝です。

目が覚めると、天井が違った。


 板張りではなく、木の格子に和紙が張られた天井だった。障子の向こうから光が入っている。朝の光だが、前の世界とは違う角度から来ている。どこかで鳥が鳴いていた。


 起き上がろうとして、体が重いことに気づいた。


 妙な重さだった。前の世界の最後には老いた体だったが、そういう重さとも違う。単純に、体が慣れていない。どこに力を入れて動けばいいかの感覚が、頭の中にあるものと一致していない。


 視界の右上を確認した。


 【満足度ゲージ:35.00%】


 引き継いだ。前の世界からの積み上げがそのまま来ている。ルキアの言葉通りだった。


 着替えが枕元に置いてあった。紺色の着物だった。着方はわかった。前世の記憶に、江戸時代前後の日本の映像がある。テレビで見た時代劇の断片、書籍で読んだ所作の知識。手は動くが、袖の通し方に少し手間取った。


 言葉も問題なかった。この時代の話し言葉は、前世で知っていた現代語とは少し違う。ただ、転生した体に「直之介としての記憶」が薄く残っていて、自然に出てくる。前の転生でも同じだった。体が覚えていることと、頭が持ち込んだ記憶が、少しずつ混ざり合っていく。


 問題は言葉でも知識でもなく、体の動かし方だった。


---


 廊下に出ると、師の声がした。


「直之介、起きたか」


 堂島玄斎——この転生での師だった。五十代の男で、頭に白いものが混じっている。蘭学者で町の診療所を営んでいる。直之介がここに書生として来たのは一ヶ月前のことらしかった。記憶が断片的にある。転生したての体の中に、ぼんやりとした「直之介としての記憶」がある。師のことは知っている、という感覚。ただ詳細は薄い。これも前の転生と同じだった。


「おはようございます」


「今日も走ってくるのか」


「はい」


 師が「なんで書生が走らなければならんのか」と言った。首を傾げた顔だった。「医術を学びたいと来たと思ったが、毎朝走り、道場で木刀を振っている書生を俺は知らない」


「体を整えた方が、頭の働きも良くなります」


「……まあ、邪魔はしないが」


 師が診療の準備を始めた。ナオ——直之介は、草履を履いて外に出た。


---


 走ろうとして、三歩目で躓いた。


 石畳に手をついた。痛い。直之介の体は十八歳で、前世の記憶では体格の良い方だったはずだが、実際に動かすと感覚がまったく違う。頭の中に「こう動けば良い」という映像はある。ただ、映像と体の間に巨大な溝があった。


 立ち上がって、もう一度走り始めた。


 今度は十歩保った。それから左足の踏み込みが外れた。前の転生での動き方の癖が体に入っていない。ゼロから覚え直しだ。それはわかっていた。ただ、これほどとは思っていなかった。


 前の転生の序盤に似ていた。あのときも、農民の体に前世のコンサルタントの感覚が乗っていた。今回はさらに差が大きい。前の世界で積み上げた体の使い方の記憶があるぶん、ギャップが目立つ。


 路地を一周してから、近くの道場の前で立ち止まった。師から「あそこに頼めば素振りくらい教えてもらえるかもしれない」と聞いていた場所だった。門を叩いたら、中年の師範が出てきた。


「書生が何の用だ」


「素振りだけ、教えてもらえますか。武術の心得はありません。体を整えたいだけです」


 師範が少し呆れた顔をした。「書生が体を整えるなら走ればいい」と言った。


「走ると躓きます」


 しばらく沈黙があった。


「……まあ、入れ」と師範は言った。「邪魔だけはするな」


 木刀を渡されて、素振りの形だけ教わった。十回振ったところで「力が全部腕に入っている」と指摘された。腰から使えと言われた。頭ではわかっていた。体がついてこなかった。


「また来ていいか」と聞いた。師範が「毎回下手くそなのを見せに来るなら止めん」と言った。それを許可と受け取って、礼を言って帰った。


「不思議そうな顔してますよ」


 声がした。


 振り向くと、通りの向こうに若い男が立っていた。羽織を着ている。二十歳前後に見える。顔が整っていて、動きが無駄なく軽い。立ち方だけで、剣を使う人間だとわかった。


「何かありましたか」と直之介は言った。


「いや、走り方が独特だったので」と男は言った。「どこか痛いのかと思いました」


「体が言うことを聞かないだけです」


「ああ、それはわかります」と男は言った。不思議な共感の仕方だった。「俺も最初そうでした。頭で動かそうとすると上手くいかない。体が先に動くようになるまで、時間がかかる。稽古してればそのうち繋がりますよ。では」


 軽く頭を下げて、男は行った。名を聞く間もなかった。


 ナオは少しの間、男が去った方向を見ていた。「体が先に動くようになるまで」という言葉が、妙に残った。前の転生で時間をかけて覚えたことを、この世界ではまた最初から積み上げ直す。それがわかっていても、何かがもったいなかった。ただ、もったいないという感覚自体が、新しい感覚だった。前の世界のナオは、こういう感情を持たなかった。


---


 診療所に戻ると、水瓶を移動させる仕事があった。


 大きな陶器の瓶を庭の端に動かすだけだ。前の転生では、これほどの重さを扱うことは普通にできた。腰を入れて持てばいい、と頭でわかっている。


 動かした瞬間、バランスが崩れた。


 瓶が傾いた。中の水が溢れた。ナオは踏ん張ろうとして右足が滑った。そのまま盛大に転んだ。水が全部こぼれた。


 師が出てきた。ナオが水浸しの地面に座っているのを見た。


「……大丈夫か」


「はい」


「怪我はないか」


「ないです」


 師が少し間を置いた。「お前、何か体に問題でもあるのか」と言った。心配しているのか呆れているのか、どちらでもあるような顔だった。


「慣れていないだけです」


「十八まで生きてきて慣れていない?」


「……鍛え直しているところです」


 師が「不思議な書生だ」と言って中に入った。直之介は水浸しのまま、少しの間地面を見ていた。


---


 夜、直之介は部屋で窓の外を眺めた。


 京都の夜だった。提灯の光が遠くに見える。どこかから人の声がする。この時代に何が起きているか、直之介には知識がある。前世の記憶から来る知識だ。


 文久三年。西暦で言えば千八百六十三年。


 新選組が結成された年だ。攘夷と開国の対立が激化している。池田屋事件まで、あと一年ほどのはずだった。師の診療所のあるこの界隈にも、浪士の姿を見ることがある。昼間も、刀を持った男たちが通りを歩いていた。


 歴史の流れがわかっている。誰が何をして、何が起きて、どういう結末になるか。その知識を持ったまま、この時代に生きている。


 それは便利でもあり、やりにくくもあった。


 便利な面:この街が今後どう動くかの大きな流れが読める。どの方向に危険が増すか、どこに逃げれば相対的に安全か。そういう判断材料が最初から手元にある。


 やりにくい面:結末を知っている人間が目の前にいる。その人間が最終的にどうなるか、わかった上で関わることになる。ルキアの言った「それでも動けるか」という問いが、じわじわと意味を持ち始めていた。


 ルキアが「先のことを知っている。誰がいつどうなるか、わかってしまう」と言った。その意味が、少しずつ実感になってきていた。池田屋が起きる前か、後か——いずれにせよ、この街はきな臭い。それだけは確かだった。


 視界の右上を確認した。35.00%。変わっていない。


 まだ何も始まっていない。体も動かない。知識だけがある。ここからどう動くかは、まだわからなかった。ただ、前の転生もそうだった。最初は農民の体で、ゴブリンが来るまで何もなかった。何かが来るまでは、できることをするしかない。


 明日も走ろう、とナオは思った。こける可能性の方が高いが、それしかない。

次話:第22話「目の前の人間が死にそうだったからだ」

師がなぜ蘭学を選んだのか。その答えは、拍子抜けするほどシンプルでした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ