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第9話

 あぁ、やられた。また鳴宮に負けた。こんなの嬉しくないわけがないだろ。


 彼女は燻っていた俺の気持ちなんてとっくにお見通しで、結婚してから最初の企画会議で、敢えて俺の案で戦ってくれたのだ。


 そこでなんなく勝利を掴み取ってくるあたり、ハイスペックさが見えてしまうが。


「んふ、あなた本当に嬉しい時ってそんな顔するんだ。まぁ知ってたけど!知ってたけれども!」


 白い指が伸びてきて、テーブル越しに俺の頬を撫でる。

 さっきまでグラスを触っていたからだろう、初夏だというのにひんやりと冷たくて気持ちがいい。


「……ありがとな」


「なんのことかしら?私はずるい女よ」


 さらっと言い切って、彼女は再びだし巻きたまごを口に運んだ。


「仲が良かった同僚の置き土産を勝手に自分のものにして、成績上げたんだから……あ、ちょっとお花摘んでくるわね」


 視界から鳴宮が消えたのを見計らって深いため息をつく。

 嬉しさやらなんやらで頭の中がごちゃごちゃだ。せっかく店に入る前にいつものお返しができたとほくそ笑んでいたのに……。


 新しく運ばれてきたハイボールを思わず一気に飲み干す。

 ついでにもう一杯注文。


 少し冷めた唐揚げは、それはそれで美味しくて。


 彼女の優しさなんだろう。

 センチメンタルな俺を一人にしてくれたのも、企画課に置いてきた俺の残留思念を未来へと連れ出してくれたのも。


 企画課にいた時とは異なる、悔しさが微塵もない敗北感が胸を支配する。

 それはどこか、電車に揺られているような心地良さもあって。


「ただいま!」


 鳴宮は晴れやかな笑顔で椅子を引く。


「おかえり」


「あれ、私のお酒だけ来たの?」


 テーブルにグラスは一つ。


「いーや、来てすぐ俺が全部飲んだ」


「そんな無茶して……」


「いいんだよ、たまには。しっかり酔いたい夜だってあるだろ?」


 きっとこんな日は、頭の中に溢れた感情を押し流すだけのアルコールが必要なのだ。


「それもそうね。じゃ、私も!」


 そう言って彼女は、俺が止める間もなくグラスを鷲掴みにして、ぐぐっと一息にハイボールを飲み干した。


「おい、合わせなくていいからな……?無理するなよ!」


 そういえば企画課時代を振り返ってみても、二人で飲みに行ったことなんてなかったっけ。大体全体の飲みだし、こいつの周りはうるさくなるから離れて座ってたもんな。


 それが今や向かい合ってサシ飲みどころか、家まで一緒ときた。

 つくづく人生とは、何が起こるかわからないものである。


「それで藍野くん」


「ん?」


 ふぅ、と一息ついたところで鳴宮は口を開く。

 あるよな、飲み会で一瞬の凪って。


「これってお祝いで合ってるわよね?」


 改まってなんだ。

 そりゃあこの飲み会は、企画会議で勝利を掴んだ鳴宮を祝う会(参加者二人)だが……。


「……そうだな」


 肯定するや否や、鳴宮の唇が半月を描く。


「私ご褒美が欲しいな〜〜〜チラッチラッ」


「口で効果音言うやつがいるかよ」


「かわいいでしょ?」


 グラス越しに見た妻の頬は赤くて。

 カラン、と響いた氷の溶ける音が耳に残る。喧騒はまだ戻ってこない。


 短く息を吐く。

 頑張った人間にはそれだけの報酬が与えられるべきだ。特に救いのないこんな世界では。

 それは会社での成績や名誉とは別の部分で。


「はぁ……過激じゃないもの、かつ俺にできることならな」


「言質とった!……ってよく考えたら結婚より過激なお願いあるかしら?」


 眉間に皺を寄せて、真剣な顔で呟く鳴宮。


「自分で言うなよ自分で……過激な自覚はあったんだな」


 安心した、まだ彼女が人間の心を持っていて。


「それじゃあ、デートに行きましょ」


 「それじゃあ」って便利な接続詞だな。

 突拍子もない話だって、さも今までの続きかのように見せられる。


「あぁ二人でどこか出かけるのか、いいぞ」


 断る理由はどこを探しても出てこなくて。


「ちーがーうー!ただ単に目的の場所に行くとか欲しいものを買いに行くとかそういうのじゃなくて、デートがしたいの!あなたと街を歩いて目に付いたお店に入って、夜はちょっといいとこでワインを飲むの」


 彼女はだーっとまくしたててこちらを見つめる。少し潤んだ目に、アルコールのせいかほんのりと赤く染まった頬、まるで引き直したばかりかのようにはっきりとしたアイライン。


 だめだな、この駆け引きは俺が不利だ。

 両手を上げて降参の意思表示、デートひとつで彼女の功績を称えられるなら安いものだ。

 よかった、妻の金銭感覚が自分と似たようなもので。これで高級ブランドのアクセサリーなんて強請られた日には目も当てられん。


「わかったわかった、デートな」


「んふ、わかってくれたようでなにより。楽しみにしてるから」


 彼女は目尻をふにゃっと下げる。

 安心しきった鳴宮の表情を間近で見られるなんて、これは夫特権だな。

 アルコールに脳が浸かっているせいか、そんな前向き(?)なことを考えながら、俺はグラスに手を伸ばした。


◆ ◇ ◆ ◇


 宴もたけなわですが……とはよく言ったもので、飲み会は楽しいうちに終わるのがよい。

 次の日のことを考えても、誰かが潰れてしまうリスクを考えても、至極真っ当だと思う。


 お会計を終わらせて外に出ると湿った香りが鼻を刺激した。


「……雨ね」


「雨だな」


 予報なんて出ていただろうか。未来予知ができない俺の鞄に傘は入っていない。

 途方に暮れていると、隣でバサッという音。


「ほら、入って」


 一歩前に踏み出して折り畳み傘を広げた鳴宮が、こちらを振り返る。


「悪いな」


「いいのよ」


 言葉が雨音にかき消されていく。

 沈黙が苦じゃないのは、きっと一緒にいるのが彼女だから。

 彼女の方に傘を少し傾けながらそんなことを思う。


 やがてぼんやりとした光を放つ駅が見えてくる。


「ねぇ、藍野くん」


 ぽつりと呟かれた言葉が、雨粒に混ざって地面へ落ちた。


「どうした、鳴宮」


 企画課時代から幾度となく繰り返してきたやりとり。そして、きっとこれからも。


「私ね、わかってるんだ。強引に藍野くんを巻き込んでること。だから、」


 目の前の信号が点滅する。

 足を止めて彼女の言葉を待つ。きっと全部聞くべきだから。


「だからね、嫌だったらちゃんと断ってね?」


 考えるまでもない、返す言葉は決まっている。


 あぁ、雨が降っていてよかった。

 この距離なら小さな声で彼女に届くから。


「嫌じゃない。嫌じゃないよ、ひな」


 これまで彼女に抱いていたものとは異なる感情が、胸の中で芽を出した気がした。

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