第8話
「かんぱいかんぱーい!」
カチン、と控えめな音が鳴る。
彼女はグラスで俺はジョッキ、夏の気温に相応しく、手に持ったそれは汗を流していた。
口をつければすぐに流れ込んでくる黄金色の液体。
早く仕事を終わらせた金曜日に飲む酒ほど美味いものはない。
「いい飲みっぷりね」
「明日は休みだからな。何軒でも付き合おう」
「今付き合うって言った!?」
わざとらしく身を乗り出す鳴宮。大学生みたいな反応じゃねぇか。
会社で見た時よりも濃いリップがオレンジの照明を受けて光る。
「偏向報道反対!」
昨今のメディアは……いや、お酒の席でやめておこう。
「そこは『付き合うって……俺たちはもう結婚してるのに、笑っちゃうよな、ひな』でしょ」
鳴宮は神妙な面持ちで声を低くする。
「その似てないモノマネ、シリーズ化してるのか」
「何が似てないモノマネよ、失礼ね。私の中で将来あなたはこうなってるんだから!」
そんなキザな台詞を吐けるほど俺の心臓は強くないぞ。
再びグラスを傾けて、鳴宮はケラケラと笑う。
普段とのギャップで風邪をひきそうだ。
プレゼンする時の整然としたこいつとも、ナンパされて冷たくあしらうこいつとも、インターン生の前で先輩ぶるこいつとも違う。
少女のように唇の端を持ち上げて、声を上げて笑う彼女こそ鳴宮ひなだと思うのだ。
「そんなことよりおめでとう、よく通ったな会議」
忘れるところだった、これは彼女の頑張りを労う会だ。
「ありがとう〜!あ、唐揚げはこっちにお願いします」
表情を変えずに、さも当たり前かのように流す鳴宮。
「平然としてるな……俺だったら嬉しくて小躍りしてるぞ」
「え!?小躍りしてる藍野くん見たいし、企画課帰ってきなよ」
会議通った話より食いつきがいいのはなんなんだ。
ストレートで投げたボールが、カーブで返ってくる。
「いやいや、先輩曰く俺は経理顔らしいから。染められてしまった」
もし、もし今戻ればあの戦場でも戦えるんだろうか。
「昔はそんなんじゃなかったのに……請求書も処理してくれないし……」
わざとらしく泣き真似をする鳴宮。あまりの白々しさに笑ってしまう。
というか処理しただろうが結局。
「でも真面目な話、藍野くんだったらみんな大歓迎なのに」
それで話は終わりとばかりに茶色いカロリーの山にお箸が差し込まれる。
大きく一口、パリッという音と彼女が頬に手を当てるのは同時だった。
「ん〜!!美味し!ほら、旦那様も食べよ?」
今日一番のテンションで声を上げて、鳴宮はハイボールをごくごくと流し込む。
喉を鳴らした彼女は幸せそうだ。
あまりに美味しそうに見えて俺の箸も勇み足になる。いや、箸を握っているのは手なんだが。
小手調べとばかりにぱくっと一口。
噛めば溢れる肉汁、パリパリの衣と鶏肉の柔らかさがコントラストを生む。その後にガツンとくるニンニクや醤油の濃い味。
風味に後押しされるようにジョッキを持ち上げる。
唐揚げにはハイボールってのが通説だが、ビールも負けてない。
「美味い……美味いな」
「でしょでしょ!この店あたりね、ナイス旦那様。また来れるようにブックマークしとかなきゃ」
そう言って彼女はたぷたぷとスマホに指を走らせる。
また彼女と来ることがあるんだろうか……あるんだろうな、夫婦だから。
改めてこれからの長い長い道のりに思いを馳せる。
「あ、そうだ藍野くん」
お酒のおかわりを注文したところで、頬を赤くした鳴宮に水を向けられる。
「どうした鳴宮、そんな嬉しそうに」
「んふふ〜お酒入ってきたかも!それでねそれでね、どんな企画だったと思う〜?」
テーブルへと再び伸びる箸。
ふわふわのだし巻きたまごがぷるんと揺れる。
丁寧に掴まれた黄色の直方体は、そのまま目の前に座る美女の口元へ。
「想像もつかんな、俺じゃ考えつきもしないことじゃないのか」
「んーと、実はね……!あなたが最後、異動する直前まで考えてたのをブラッシュアップして提出したの。あの時私に相談してくれてたじゃない?」
心臓が一瞬だけ活動の限界を迎えたみたいだ。
今まで鳴宮の話を聞く度に心がささくれのように痛んだのは、後悔が残っていたから。
これならいける、と当時自信満々で企画案を準備していたのに異動してしまった現実が、刺さった棘のように抜けてくれなかったから。
「ねぇ、ほんとは企画課でまだやりたいことがたくさんあったんでしょ」
俺と目を合わせずに、鳴宮はグラスを撫でた。
「…………。」
上手く言葉が紡げない。
息が詰まる……そうか、あの企画。会議を通るポテンシャルがあったんだな。
後悔と安心感が心に同居している。あぁ、まるで俺と鳴宮みたいだ。
目頭が熱い。
歳をとるとだめだな、涙腺が緩くなる。
「大丈夫、まかせてよ。あなたの分まで私が連れてってあげる。だって、」
頬杖をついた鳴宮は、優しい目をして言った。
いつもみたいに、さもそれが当然かのように、自信満々で。
「私はあなたの妻だから」




