第45話
「来たわよ!私が!」
高らかに宣言する鳴宮。
車から降りて歩くこと数分。フードフェスの会場に到着した俺たちを迎えてくれたのは、大量の人と爆音で流れる音楽だった。
張り詰めた雰囲気も整理された長蛇の列もないけれど、みんな闘志を燃やしている。
これが、フェス……!
「俺こういうところ来るの初めてかもしれん」
「私はね〜二回目かな!各々勝手に盛り上がってる感じがいいよね」
初めてでも何回か来たわけでもない、二回目。そこから導き出されることなんて決まってる。
一回目の記憶が色濃く残っているのだ。
鳩尾を重い拳で殴られたかのような衝撃。
果たして俺に「前は誰と来たのか」と聞く権利はあるのだろうか。
もし聞いたとして、その答えが前に好きだった人だった時、どうすればいいんだろう……いや、どうしようもないんだが、このはみ出てしまった気持ちの着地点が見つからないのだ。
悩んでも仕方がないところで立ち止まってしまうのは、中々に経理課っぽいなと思う。
何が正解かを常に考えているから。
足を止める。別に身体がしんどいわけではない。
ちょっと心に矢を受けてしまったのだ、「俺の知らない妻の過去」という名の遅効性の毒が鏃に塗られた細い矢を。
先を歩く鳴宮が振り向く。
「どうしたの?」と言わんばかりに持ち上げられた眉に、こちらを慮る瞳に、心臓がばくんと跳ねた。
途端にたった数歩の差が遠く感じる。
それは仕事の劣等感とも、ライフステージが進んでいく中で周りに置いていかれる感覚とも違う。
恋愛初心者かよ。
頭の中でどこか俯瞰した自分が、現実の俺を見て嘲笑った。
嫉妬という感情が上手く噛み砕けなくなったのはどうしてだろう。
答えなんてわかりきっている。
気持ちを自覚できるほどに鳴宮ひなという女性を好きになってしまったからだ。
大人になったと思っていた、精神的に成長したとも。
でもそれは単に熱を一時的に失っていたに過ぎなかったのだ。
「およ?大丈夫?藍野くん」
しかし、しかしだ。
彼女が数ヶ月かけて縮めた、縮めてくれたこの距離を、片方だけの醜い感情で再び離すわけにはいかない。
「あぁすまん、ちょっとな」
ならば自分のできることをするまで。
結果が出ずに泣いていた愛しの妻が昔、深夜のオフィスでそうしたように。
大股で鳴宮に近づく、彼女が三歩で歩いた距離を二歩で。これくらいじゃないと追いつけない。
少し迷って、宙に揺れた白い手を掴んだ。
目をぱちくりと瞬かせると、鳴宮はにんまりと笑った。
「ふふ、やっぱこれね!」
もう放さないとばかりに力いっぱい握られる。
離れられないのはこっちなのにな。
視線を前へ向けたところで、鳴宮が口を開いた。
「それでね、藍野くん。あなたに二つ教えてあげる」
こしょこしょと秘密の話をするように、まるで世界から隠れるかのように彼女は小声で話す。
「ねぇ聞いて。ひとつはね、私はあなたが思ってるよりずっと深く深く、あなたしか見えてないってこと」
人差し指をくるくると回転させながら歌うように口ずさむ。
「んふ、そんな泣きそうな顔しないでよ。ちなみに前にフェスに来たのはしずくちゃんと二人でだからね!心配しないで」
見透かされているのが恥ずかしくて照れくさくて、どこか気持ちいいのは毒されすぎだろうか。
歩幅が小さくなる。
変則的なステップにも合わせられるのは時間の為せる技か、それとも心的距離のおかげか。
いずれにせよ嬉しいものではあるんだが。
不意に音がどこかに吸い込まれていくように、静寂が二人の間を支配する。
鳴宮の纏う雰囲気が変わった。
きっと時間にして一秒もなかっただろう。
でもその刹那が、表情の移り変わりが俺の心を鷲掴みにした。
「それでも信じられないなら、どうしましょう。ここでキスの一つでもしてみましょうか?」
今まで見たことのない艶やかな笑み。
鳴宮ひなという人間は自分を魅せるのが上手い。
それはプレゼンの時に限らず、初対面の人と会う時、ドアを開ける時、後ろから声をかけられた時。
日常の中ですら、自分を一番よく見せる方法を熟知している。
俺だってもう数年の付き合いだ。不意に輝く彼女の美しさに慣れたと思っていた。
ただ、この瞬間においてはそれすら驕りだったと認めざるを得ない。
視覚が、聴覚が強制的に引き寄せられる。
「俺は……」
胸に溜まった思いを吐露しそうになったところで、人差し指が唇に触れた。
ほのかに甘い。
秋も深まってきたというのに、触れた部分を熱く感じてしまう。
「いつでもいいの。でも今じゃないでしょう?もっとちゃんと心の中が綺麗になったら、あなたの理性で聞かせて」
下がった眉尻は優しさなんだろう。
「いつまでだって待てるんだから。馬鹿にしないでよ旦那様、私がどれだけあなたのことを……」
そこから先は、突如流れた風によってかき消された。
でもきっと続きは頭のどこかでわかっていて。
「それでもうひとつはね?」
あぁ、贅沢にも彼女はもう一つ教えてくれるらしい。
鳴宮は悪戯が成功した時のような……あぁ、やっぱり花巻と仲がいいんだな、なんて思えるくらいにんまり口を開く。
果たして、口を開いたのは彼女でも俺でもなかった。
「あれ、藍野?……と鳴宮さんだよな?」
後ろから飛んできたのは、仕事中に隣からよく聞こえてくる声で。
「こんなところで奇遇ですね、こんにちは!」
最初からいることを知っていたかのように、鳴宮はいつも通り挨拶する。
驚きと諦めが綯い交ぜになりながら振り向いた先には、普段は絶対に見ることのない驚きの表情を浮かべた先輩が立ち尽くしていた。




