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第43話

 出張打ち合わせが終わったとて、劇的な変化があるわけではない。


 毎日いつも通り出勤していつも通り仕事をこなしている。

 激甘な予算立ての事業計画書に赤ペンを入れて、今日締切の請求書を急いで処理する。


「藍野、いつも以上に経理顔してるぞ」


 そう宣うのは隣に座る先輩。

 いやいや、この前の飲み会の時と声のトーン違いすぎでしょ。


 経理の古株に言われては、自分の将来が不安になる。

 俺はこのまま経理課の犬になるのか……?ただの飼い犬というより、どちらかといえば支払直前の番犬っぽいけど。


「このまま経理課に骨埋めるんですかね」


「んなこと俺に聞くなよ……こっちの方が思ってるわそれ。藍野まだ20代だろ?」


「ギリギリですけど」


「じゃあまだ異動の可能性あるって。行きたいとこあるなら課長面談の時にでも言っとけよ〜、言わなきゃ叶わないからな」


 どくっと心臓が跳ねる。

 「言わなきゃ叶わない」。それは別に仕事以外のことにも当てはまりそうで。


 口にしない希望よりも口にした希望の方が叶うのは、きっと環境に差ができるから。


「とは言っても、別に行きたい部署があるわけでもないんですよね〜」


「なんだそれは」


「逆に先輩って行きたい部署あるんです?」


「経理と企画以外だな!」


 尖りすぎだろ。

 確かに企画課は人気部署第一位かつ不人気部署第一位だが……。

 まぁ住めば都、郷に入れば郷に従うしかない、慣れれば快適な部署だ。


「営業とか行ったらどうするんですか」


「まぁ聞けよ藍野、この俺が営業ができると思うか……?」


 先輩は相も変わらず能面のような無表情で画面と向き合っている。

 どれだけ営業トークが上手くても、これでは契約書にサインはできないわな。


「先輩はアルコール入れてからなら営業いけますよ」


「コンプラで一発処分だろ」


「違いないですね」


 馬鹿な話に花を咲かせながらも、うずたかく積み上がった書類は徐々に削れていく。

 いっそのことこのまま全部シュレッダーにかけられたらいいのに。


「そういや藍野さ」


 珍しく先輩がキーボードから手を離してこちらを向く。

 自分も椅子を回転させれば、片方だけ唇の端を持ち上げた先輩が視界に映った。


「今回企画コンペで出しただろ?お前出戻りの可能性、大いにあるぞ」


◆ ◇ ◆ ◇


 自販機までの道のりが長く感じる。


 先輩の悪ノリと鳴宮の予感めいた言葉が頭の中をぐるぐると遊泳している。

 またあの舞台に、戦場に立つことがあるんだろうか。


 栄光を手にする瞬間、夫婦となった鳴宮と共に切磋琢磨する未来。

 それとは反対に結果が出ずに焦りばかりが募っていく日々。


 捕らぬ狸の皮算用だとは重々承知しているが、いざ決断を迫られたら俺はどうするんだろう。

 ぼーっとしながらスマホを自販機にかざす。


 いつも通りの操作をしているはずなのに、指が滑る。

 結果、吐き出されたのは黒ではなく金や茶色で彩られたカフェオレの缶。


 ちょっと遠回りするだけだから。

 そう言い聞かせて俺の足は古巣へと向かった。


 開いているドアから中を覗くと、難しい顔をして画面と向き合う鳴宮がいた。

 前のめりで綺麗な輪郭に添えられた指、照明を受けて光るリップ、細めた目。


 そういえば、自分に気づいていない彼女を見るのは久しぶりだ。

 どこか湧き上がってくる背徳感に蓋をする。


 仕事の邪魔しちゃ悪いし、間違って買ってしまったこのカフェオレは自分で飲むか。

 そう思って後ろを向いたところで、中から声が聞こえる。


「鳴宮さん、相方来てるよ〜」


 足を止めなかった自分を褒めたい。

 まぁ、ほんのちょっとだけスピードは落としたけれども。


 「相方」という言葉に反応したところを見られてみろ、ずっとそのネタでいじられるのは明々白々だ。


「藍野くん!」


 声の主はもちろん我が妻。

 舞い上がる気持ちを悟られないように、ゆっくりと振り向く。


「おう、鳴宮」


「『おう』じゃないわよ〜どうしたの!企画で何かあった?それとも請求書関係かしら?それとも」


 向かってくる彼女の視線が俺の手元を捉える。

 刹那、鳴宮の唇は弧を描いた。


「んふふ」


「だらしない顔になってるぞ」


 隣に並んだ彼女の肩がこつんと触れる。

 どこを目指すでもなく右足と左足を交互に前へ。


「そりゃあねぇ〜〜あの藍野くんがカフェオレ持って企画課に来る理由なんて一つしか想像できないから!」


 カフェオレを受け取る彼女の指が俺の指に当たった。

 いやこれはわざと当てたんだ。


 なめらかな金属の感触。


「いつだって歓迎するわ。私だって会いたいから」


 他の人には聞こえないよう、耳元で囁かれる言葉たち。

 この距離感の方が逆に怪しいだろ。


「でも手を繋ぐのは帰ってからにしましょう?」


「会社で繋ぐわけないだろ」


「あら、前なら私からチャットしなきゃ会うことすらなかったあなたが、手土産持って会いに来てくれたのよ?」


 嬉しそうな声色は、心に垂れ込めた暗雲を払ってくれる。

 やっぱり彼女に会いに来て正解だった、と思う。


 ただ、廊下で話すにはあまりにもリスキーな内容だろ。


「明日には私のことを名前で呼んで、毎日手を繋いで通勤する未来まで見えたわ」


 エスカレートした鳴宮は止まらない。


「眼科紹介しようか?」


「同じ家に住んでるんだから、最寄りの病院も一緒よ」


 だめだ、反論をことごとく潰される。


「だからね、だから。また話したくなったらいつでも来てちょうだいね、自称相方の藍野くん」


 彼女はそう言って、片目を閉じた。


 退路なんて元からなかった。

 どうやら俺は、ずっと彼女の手のひらの上で踊らされていたらしい。


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