第41話
もじもじしながら風呂場から出てきたと思ったら、無言でドライヤーを差し出される。
ははーんわかった、髪を乾かせってことだな?
どうだ、鳴宮……ひな検定昇級の日も近い。
「うい」
隣の椅子を引いて手で座るよう示す。
トラブルやら外泊やらの非日常感で、今ならなんでも許してしまいそうだ。
旅の恥はかき捨てと言うし。
「んーん、こっちがいい」
彼女は身体をぐっと近づけると、俺の膝を指さした。
よく考えろ、俺はスーツ、彼女はパジャマ。
膝に乗ることはこの際もういい……もういいのか?
だが、せっかくシャワーで綺麗になったんだから、一日歩いた後のおっさんの脚に乗るのはナシだ。
「膝の上だと汚れるから椅子にしないか?」
「んー、しない!」
無理やり座ろうとした鳴宮をなんとかガード。
くっ……こいつ全体重を掛けてきてやがる。
「わかったわかった、せめて俺もシャワー浴びさせてくれ」
「それってまさか……!」
うちの妻はやっぱりたまにアホの子になるな。
手を頬に当てて「ぽっ」じゃないんだよ。
「膝の上に乗るだけな」
暗に示す、それ以上はないことを。
「今はそれでいいでしょう」
「おい、なんでそっちが妥協した感じになってるんだ」
「はいはい旦那様は早くお風呂入ってね〜〜」
背中を押されるがまま脱衣所へ。
ドアを閉めれば部屋に満ちていた音が遠くなる。
彼女が風邪をひかないように、少し急いで頭からつま先まで泡で満たす。
いつもとは違うシャンプーのはずなのに、さっき香ったのと同じ匂いに包まれた。
非日常は日常を際立たせる。
こんな簡単なことで夫婦を感じてしまうのだ。
ビジネスホテル特有の熱いシャワーが顔を打つ。
自分の気持ちを自覚してから、彼女のことがよく見えるようになった。
手ぐしで髪を整えてから俺に声をかけるところとか、遠慮して手を繋がずに腕を取るところとか、「おはよう」と「おやすみ」、「いってらっしゃい」と「ただいま」を毎日欠かさないところとか。
他にもたくさんある。おかずの最後を譲ってくれたり、一緒に帰る時には先に鍵を開けてくれたり。
直接伝えるのは照れくさいが、その全部が愛おしい。
心臓を優しくベールが覆うような、それでいて無造作に全力でぎゅっと掴まれるような、二律背反が感覚を支配する。
息ができなくなるほどの感情すらも、今は嬉しい。
自分を変えてくれたのは、間違いなく夏のレストランでの一言だ。
「私が妻じゃ、不満かしら?」
人は言葉によって生きる。血肉になるのが食事なら、精神を形作るのは言葉である。
何気ない文章が人との関係を、人生を変えるものだ。
あの時は自分が酔っているからだと言い訳した。
でも本当は心の奥底ですとんと腑に落ちたのだ。パズルのピースがちょうど嵌まるみたいに。
多分ずっと前から惹かれていた。
臆病な俺は関係が変わるのが怖くて、気持ちに鍵をかけていたんだろう。
でも今は違う。名が夫婦なら、あとは実を伴うだけだ。
ところでこの世界のどこに、鳴宮ひなを妻にもらって不満を漏らせる人間がいるのだろう。
きっと「そんな人間はいない」というのが、会社の、世間一般の共通認識だろう。
しかしそれでも、軽く不満くらい口にできなければ夫婦関係なんて成り立たないのだ。
だから俺は、自分の気持ちに正直でいようと思う。
ひなが自分に何を期待しているのかはわからない。
わからないが、正直そんなことはどうでもいい。俺が彼女を好きで、二人が夫婦ならば。
もしも彼女が、この結婚を偽装と言うならそれでいい。
それでいい、本当にそれでいいのだ。
流れる水滴をふかふかのタオルで拭き取っていく。
いささかお湯に打たれすぎただろうか。火照る身体と脱衣所の温度差に身震いする。
備え付けのパジャマに腕を通して、鏡に映る自分へ目線を向けた。
洗いたての髪は力なく重力に負けて垂れ下がっている。特段スタイルがいいわけでもない。
……これのどこがいいのかわからない。
ふぅ、と短いため息。
弱気になっても仕方ない、まずは自分の使命を果たさねば。
部屋に戻ると、ひなは一つしかないベッドにうつ伏せで寝そべってスマホを握りしめていた。
たぷたぷと走る指。
こっそり近付くと、画面に見えたタイトルは「気になる彼との旅行先ベスト30」。
いやいやいやいや、「気になる彼との」って部分より「ベスト30」が気になるわ。
日本の都道府県の数は47、30も埋めたら6割以上じゃねぇか。実質参考にならないのと同じだろ。
「上がったぞ、ひな」
彼女はそのままの姿勢を崩さない。
「おい」
「だめ。もう一回言って」
「なんで……」
「いいからいいから!」
身体をうねうねと動かしながら強請るひな。
「上がったぞ……これでいいか?」
「ちーがーうーでしょ!わざとやってる?」
正直わざとやってる。
相手の考えがわかるって、いつものひなの気持ちってこんな感じなんだな。
くっと小さな優越感が胸に湧き上がる。
「はいはい。上がったぞ、ひな」
「んふー!疲労に効くわね……これから毎日義務にしない?」
がばっと身体を起こすと、彼女は腕を広げた。
そこに入れと?さすがにそれは……。
「しない。俺の恥ずかしさが限界突破するから」
「私しか見てないじゃない」
「お前に見られてるのが問題なんだよ」
「まぁまぁ旦那様、そう言わずに……」
へへっと笑いながら、彼女は俺の前へぽすんと座る。
ここが定位置と言わんばかりに背中を預けて、右手でドライヤーを差し出した。
そうだった。元々髪を乾かすって話だった。
スイッチを入れると温風が流れ出す。
手首を振って根元から毛先まで丁寧に風を当てていく。
改めて思う、ツヤツヤでしっとりしていて、
「綺麗だな」
思わず溢れた言葉は、指を伝って部屋に浮かんだ。
ひなに聞こえていないことを願いながら手を動かす。
時間にして数分、沈黙が部屋に舞い降りた。
でもそれがどこか心地よくて。
粗方乾かし終わったところで手が伸びてくる。
優しく奪われたドライヤー、慣れた手つきで彼女は毛先に冷風を当てていく。
きっとこれは非日常だから。変なテンションになっているだけだから。
誰へともわからない言い訳を頭の中で並べて、俺は彼女の腰に回した手に力を込めた。
他でもないあなたが、あなたがこの結婚を偽装と言うならそれで、それでいい。




