第40話 鳴宮ひなは気付いてほしい
side:鳴宮ひな
出先で満腹になった私たちは急いでホテルへと戻ってきた。
本当はもう少し街をお散歩したかったけど、仕方ない。なぜならとんでもない勢いで雨が降ってきたから。
きゅっきゅっと音が反響する。
今は私が先にシャワーをいただいている。
帰りに傘を買ったけれど、結構濡れてしまった。
一本しか買わなかったから!あの藍野くんが傘を一本しか!
「一つでいいだろ」って顔を背けながら言ってた彼、かわいすぎるでしょう。私をどうしたいんだ旦那様は。
藍野くんが手を繋いでくれた時は、嬉しさのあまり力が抜けて倒れるところだったわ。
今でも手に残った温かい感触はきっと、いつか私を救ってくれる。
シャンプーを泡立てながら思い浮かぶのは、もちろん彼のこと。
ここ最近の夫はどこかおかしい。
あまりにも自然に私のスキンシップを受け入れたかと思えば、おずおずと照れながら手を伸ばしてくれる。
やっと私のことを好きになってくれたのかしら、なんてお花畑な思考が過るけど、そんなはずはない。
だってあの時、外堀だけ埋めて急接近したから。
どれだけ優しい人でも、「偽装結婚」なんて言われたら身構えるに決まってる。
熱い水滴が身体を伝って地面へ流れていく。
目に浮かぶのは夏のレストランでの一幕。
一目でいつも会社で来ているスーツよりも上等なものだとわかった。
髪をセットして毅然とした表情の彼は、私の知らない人みたいで。
あぁ覚えている。チクッとどころか、ズドンと鳩尾を抉られたような衝撃。
彼がまだ企画課にいた頃、二人で飲みに行くことだって何回もあったけど、あんな藍野くんは見たことがなかった。
有り体に言えば、私は私に嫉妬した。
正確に言うと「彼がこれから会おうとしている女性」に嫉妬したのだ。
藍野くんからすれば、そこに私が待っているとは知らないわけだ。
ということは今日初めて会うはずの女性のために、あれだけかっこよくおめかししてきたのだ。
ずるいずるいずるい。
ここに立つのが私じゃなかったら、なんて考えただけで身震いする。
だからどうしても最後の一歩が踏み出せない。
藍野くんが隣にいてくれるのは偶然で、幸運で、彼に負担を強いているから。
なんて自己欺瞞だ。
勇気を出した結果が歪な関係だなんて、私の片思いはいつまでも実らないなんて、とんだ笑い話だ。
いっそ昔の教訓みたいに諺にでもなればいい。
蛇口を閉めて髪の水気を絞る。
悩んでいても時間は止まってくれない。いつかしずくちゃんに言われた「停滞は敗北だ」という言葉が、嫌に耳に残っている。
しかし、しかしだ。
最初の一歩と最後の一歩はいつだって重いものだ。
いっそ彼の方からこのボーダーライン、もとい偽装と本物の境界線を飛び越えてくれないかしら、なんて考えるのは驕り過ぎだろうか。
私が始めた物語だから、別れるなんて微塵も考えたくないけど、その結末を見る義務がある。それはわかってる。
わかってるからこそ、できるならエピローグは嬉し涙がいい。
ふと思い当たる。
そういえば私、藍野くんに一度でも自分の気持ちを伝えただろうか。
状況証拠だけ揃えて、せっせと外堀を埋めて本命の城を攻めることはしていないんじゃないだろうか。
ガラガラガラとドアを開けて風呂場から脱出。
身体を手早く拭いてホテル備え付けの寝巻きに着替える。
……少しだけ、ほんの少しだけメイクを。
ドライヤーは……藍野くんに渡したら髪を乾かしてくれるかな。
それで自然な感じで伝えよう、好きだって。
最初は軽く、慣れてきたらちゃんと目を見て。
「あ、あいのくん」
目にしたのは椅子に座りながらスマホをいじっている夫。
私に一番風呂を譲ったせいで、髪がしっとりしている。
非日常的な状況だからか、気持ちを伝えようとしているからか、いつもよりかっこよく……いや、セクシーに見えてしまう。
どうしてしまったんだ私の目は。
バスタオルで髪を拭きながら歩み寄る。
近付く私に気付いて目線を上げる藍野くん。
うっ……上目遣いなんて反則でしょ。
改めて「好き」って言おうとすると、舌が乾いて上手く言葉が紡げない。
ぴったりな言葉なんてわかりきっているはずなのに、たった二文字が口から出ない。
これは私の甘さだ。
だから問答無用で突きつけて欲しい、好意という槍で本当は私の心臓を貫いて欲しい。
外に出たいのに出られない私の気持ちは、閉じ込められるが故に大きくなる。
いつか、彼がいつかこの結婚を「偽装じゃなくていい」なんて思ってくれたその時は、ちゃんと謝ろう。
偽装結婚だなんて嘘をついてごめんなさいと、あなたの気持ちを試すようなことをしてごめんなさいと。
マイナスにマイナスを掛けたらプラスになるように、嘘の嘘は本当なんだって。
だってこれは偽装なんかじゃない、これは間違いなく、少しの狂いもなく、寸分違わず私にとって恋愛結婚なんだから。




