第39話
打ち合わせが無事終わった晴れ晴れしい気持ち半分、どうしてこうなったと戸惑いの気持ち半分でホテルから出る。
鞄やらの荷物一式は部屋に置いてきた。
「ふんふんふん〜旅行!旅行!」
まるでダンスホールにいるかのように彼女はステップを踏む、少し雲が紫がかったビジネス街で。
彼女はずっと上機嫌だ。
というか花巻のやつ、予想に違わず一部屋しか取っていなかった。
しかもご丁寧に三人のチャットで『褒めて褒めて!』と騒ぐ始末。まったくいい性格してやがる。
ホテルの着いたら着いたで鳴宮は速攻フロントへ走っていき、「藍野ひな」とサインした用紙を高らかに掲げていた。
うちの同期たちはどうなってるんだ。
彼女曰く「これが正しい名前」らしい。
やけに名乗る時にも力が入っていたしな。
「知らない街で知ってる人といるのってなんだかワクワクしない?」
今なお鼻歌でも歌い出しそうな声で、意識が現実に引き戻される。
「確かに。修学旅行とかの非日常感あるよな」
「しかも一緒にいるのが親でも友達でもなく、旦那様なの」
いつものように、鳴宮は俺の少し前を歩く。
「俺はいまだにお前が妻なのが夢か現実かわからなくなるよ」
これは正直な気持ち。
あのレストランで偽装結婚を持ちかけられてからずっと、もう夢から覚めるんじゃないかと疑っている。
「それっていい意味で言ってる?」
振り返った彼女の髪がオーロラのように靡く。
深い色を湛えた瞳は、視界の奥に潜む夜に溶けてしまいそうだ。
答えなんてわかっているはずなのに。
それでもきっと、俺の口から聞きたいのだろう。それくらいを察せるくらいには、ここ数ヶ月間彼女の夫をやってきたのだ。
「もちろん。鳴宮が妻でよか……」
「ひな」
「なるみ……」
「『ひな』ね?」
鋼鉄の意志を感じる。
「ひなが妻でよかったと思ってるよ」
「えへへ、よかった!……それで私のことが好きで好きで仕方がない藍野くん」
「鳴宮フィルター」もとい「ひなフィルター」を通せば、俺の言葉は彼女の都合のいいように解釈される。
敢えて訂正することはしないけれど。
「慣れてないことってすぐにはできないじゃん?」
どうした、突然世界の真理みたいな話して。
「そりゃなぁ。俺もプレゼンなんてまだまだ緊張するわけだし」
「そこで提案があります!」
指で天を突くと、鳴宮は自信満々に笑みを浮かべる。
あぁだめだ、この顔をしている彼女には勝てない。
「な、なんでしょう」
「ここって知り合いに会う可能性がほぼゼロじゃない」
新幹線でも使わなきゃ来れないわけだし、そうだよな。
「だから、ここではいかにも夫婦然としていましょ?旦那様」
今までも夫婦然としていただろ、主に家で。
同じ布団に寝て同じ時間に起きて、同じご飯を食べて一緒に通勤する。
足りないものはきっと。
「……わかったよ、ひな」
俺が彼女を名前で呼んでいないことくらいだろう。
まぁ彼女も俺のことを名前で呼んでないけどな!
「ん、よろしい!あなたも私の考えてることわかるようになってきたのね」
「というよりは、俺の考えてることがなるみ……ひなに近付いて来たんじゃないか」
「何それ、最高じゃない」
嬉しそうに笑うと、ひなは俺の腕に自分の腕を絡めた。
ふと気付く。
多分これは、彼女が自分から手を繋がないのはきっと、遠慮のせいだ。
ひなのことがわかってきた今だから言える。
潮風のように自由で、真夏の太陽のように自信に満ち溢れた彼女でさえ、負い目を感じているのだ。
俺に結婚なんていう大きな決断を迫ってしまったことに。
気付いた瞬間、胸の奥から温かいものが溢れて止まらない。
それは冷たくなった指先を溶かすには十分な熱さで。
秋はどこか物足りなくて、寂しい。
まるでパズルのピースが足りないかのように、心が欠けている気がするのだ。
だからそれを埋めるため、人々は少しだけ身を寄せ合う。
予行演習にはちょうどいい、どうせいつかは俺から気持ちを伝えるんだから。
「じゃあ晩ご飯、探しに行くか」
なんとも、一歩目の勇気とは踏み出し難いものである。
でも俺の隣にいる妻があの時、初めて企画会議を通した時に比べれば。
「あっ」
ぎゅっと組まれていた腕を丁寧に解く。
そんな悲しそうな顔しないでくれ、すぐにまた繋ぐんだから。
きっと彼女は、俺に悪くない感情を抱いてくれているのだろう。戸籍を新しく作ってもいいと思えるくらいには。
だからこの関係が偽りから始まったものだとしても、双方向の思いがあるのなら。
それは本物と違わないと、俺たちは胸を張って夫婦でいられるのだと信じてやまないのだ。
だからこれは俺からの一歩目。
少し先を歩く妻の隣に並ぶための、小さな小さな一歩目なのだ。
追いかけるでも向かい合うでもなく、並んで同じ未来を見るための。
ぎこちなく絡まった指はそれでも、初めてとは思えないほどしっくりと収まって。
それもそのはず、俺たちは夫婦だから。
「ありがと、藍野くん」
それ以上の言葉は必要ない。
見慣れない景色の中、俺たちは体温を分け合った。




