第36話
何がお互い向き合って少しずつでも知っていくだ。
そんな甘えたことを言っていた数日前の自分を殴りたい。
いや、別に心情に変化はないんだが、なにせ忙しい。まさに忙殺。
よく良く考えれば当たり前だ。
経理の通常業務をこなしながら、同時に打ち合わせやら場所押さえやら人員確保やらに奔走する日々。
間違いがないかひとつずつ論理を組み上げて「正しさ」を判断する経理課と、とりあえずは案を出して、後から「正しさ」を付け加える企画課では使う脳の部分が異なるのだ。
「はぁ〜〜〜〜〜終わらねぇ!」
長い長いため息が空中に溶けていく。
時計を見れば既に21時を回っていた。
「いつになく積み上がってるわね、書類が」
隣ではカタカタとキーボードを打つ鳴宮。
ここは経理課でもフリースペースでもない、企画課だ。
近々先方との打ち合わせがあるというのに資料作成が全然進まないから、ミーティング兼話し相手として鳴宮に呼ばれたはいいものの、俺は俺で経理の仕事に追われているから「企画部屋で経理の処理をする」なんて訳のわからないことになっている。
それもこれも下半期に入ってからやる気を出した営業課のせいだ……くそ、本気出してこれだけ契約取ってこれるなら期初期末だけじゃなくてコンスタントに頑張ってくれよ……。
「私余裕できそうだから、資料いくつか巻取ろうか?」
「助かる、持つべきものは優秀な……」
優秀な。
危ない危ない、気が抜けてよからぬことを会社で口走りそうになった。
「え、続きは?」
音が止んだと思ったら、キーボードから手を離した鳴宮がシャーッと椅子を滑らせる。
歩けばほんの数歩の距離をショートカットする彼女は、まるでペンギンだ。
一向にスピードが落ちない鳴宮号……おいおい、このままぶつかるつもりか?
避けるか身構えるか悩んでいると、彼女は腕を広げてこちらへ。
ふわっと舞う甘い香り。
さっきまでは遠くにあった唇が、今は耳のすぐそばに。
「それで、持つべきものは何?藍野くん」
「仲のいい同期だな」
「ち・が・うでしょ!ほら!『持つべきものは愛すべき妻だな……フッひな、こっちおいで』これでいきましょう。リピートアフターミー」
肩をむんずと掴んで、鳴宮は俺を前後に揺らす。
やめろ、脳がシェイクされるだろ。どうするんだこの勢いでだめだめな請求書を承認してしまったら。
「セリフ改竄も甚だしい、そのモノマネシリーズそろそろやめない?」
「やめない!なぜなら楽しいから!」
再び椅子に座りなおすと、鳴宮はくるくると回転しながら自席へと帰っていく。
残業中は妙なテンションになるのはわかる。
わかるんだが、タガが外れすぎだろ。家よりも好き勝手しやがって……。
「藍野くんが私のこと普通にひなって呼んでくれるのを待ってるんだけどな〜〜」
「はいはいいつかな」
まぁでも、いつかその時には間違いなく。
彼女のことを名前で呼ぼうと思う。今はまだ、今はまだ自分の中の気持ちを育てるので精一杯なのだ。
「んふふ……えへ」
視界の端に映る彼女は手を口にかざして笑っている。
思わず唇の隙間から漏れてしまったような。
「どうした」
視線は依然として手元の請求書に向けたまま、耳だけ彼女の声に集中する。
「だって前だったら絶対『呼ばないが』とか言ってツーンってしてたのにね」
言われてハッとする。確かにその通りだ。
これまでだったらあしらって終わりだったが、今俺の口から出た言葉はなんだ。
知らない間に少しずつ寄ってるんだろう、心の座標が鳴宮の方へ。
きっとそれは自分の中にある温かくてほんの少し苦しい気持ちに気がついたから。
「なんでだろうな」
「それはね〜〜簡単よ!あなたが旦那としての自覚を持ってるからよ!」
ビシッと突きつけられた指に視線を奪われる。
俺のことを俺より知っている鳴宮曰く、ようやく旦那らしくなれたらしい。
きっと俺にとって喜ばしいことなんだろう。願わくば彼女にとっても。
言葉を心の内に仕舞って数分、いや数十分経っただろうか。
「ん〜〜〜これでなんとか打ち合わせは乗り切れるかしら」
パタンとPCのを畳んで、鳴宮は椅子に身体を投げ出した。
俺の前にうずたかく積み上がっていた書類の山も、半分ほどになっている。
「俺もキリのいいところまでいけたわ、帰るか」
「ん!これで企画課の鳴宮ひなは閉店よ!」
いつの間にか荷物をまとめ終えた彼女が、こちらに缶コーヒーを差し出した。
◆ ◇ ◆ ◇
会社から出ると、頭上にまんまるな月が浮かんでいた。
雲ひとつない晴れ間、夜はどうして空が触れそうなくらい近いのか。
「綺麗ね、旦那様」
何がとは言わない。
大切なことは言葉にしないと伝わらないが、たまにはぼかしてもいいのだ。
特に意味が二つあるときは。
「そうだな」
だから俺も大切な部分は省いて返す。
きっとそれは甘えで、しかし信頼だ。
果たして綺麗なのは月なのか、それとも。
自分がもう少し若ければ、大きく揺れる情動のまま隣を歩く彼女に愛を囁いたりしたんだろうか。
今の心はまるで海。小さく漣が寄せては返し、たまに凪いでは鳴宮の言葉に安心する。
「秋だな」
いつの間にかジャケットを羽織らないと肌寒い季節に移り変わっていた。
会社前の街路樹たちも赤や黄色の服をまとい始めて、穏やかな風に身体を揺らしている。
「えぇ、楽しい夏だっわ。あなたのおかげで」
夏が終われば秋が来るように、月の裏側はずっと見られないように、まるでそれが当たり前かのように彼女は俺の腕を取った。
「じゃあ帰りましょうか旦那様、私たちの家に」




