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第35話

「ほはよう、あいのくん」


 朝一番に聞くのは、いつも彼女の寝惚け声。

 ビールも一番搾りが美味しいように、鳴宮だって朝一番がかわいいのだ。


 ……っと、ビールのことを考えると頭がズキズキ痛む。

 昨日の前期決算お疲れ様会のせい、いや違うな。あの後コンビニで強めの酒をこれでもかとカゴに入れた鳴宮のせいだ。


 「藍野君の浮気を許さない裁判」とか銘打って、彼女にしこたま飲まされた。

 そもそも許さない裁判ってなんだ。許すか許さないかを決めるのが裁判だろ。


「あいのくん……いない?」


 二日酔いと戦っていたら返事するのを忘れていた。

 というか目を閉じたまま俺のこと呼んでたのかよ。


「いるよ、鳴宮。おはよう」


「えへ、よかった」


 昨日は荒ぶっていた彼女も一夜明ければこの有様だ。

 荒れていたと言っても、ソファでチューハイの缶を片手にだる絡みしてきただけなんだが。


 しかもシャワーを浴びてから飲み始めたのをいいことに途中で寝やがって……。あ、この悲鳴を上げる筋肉たちは鳴宮を寝室まで運んだからか。

 しかし翌日に筋肉痛が来るなんて、俺もまだまだ若いな。


 なんて馬鹿なことを考えていると、隣の妻がゴロンと身体を寄せてくる。


「うつ伏せはやめてくれ〜〜身体当たってるぞ」


「当ててんのよ」


「何も起きないし起こさせないから、おとなしくそっち寄ろうな」


 腕で彼女の身体を押し戻す。

 会社ではあれだけしっかりしてるのに、どうして家だとこんなにも無防備なんだ。


 まぁそこがかわいいと言えばかわいいんだが……本人には言えないけども。

 そう思ってることが会社でバレてみろ、おそらくその瞬間に時間休を発動、帰宅するまでくっついたままだぞあいつは。


 少しはわかるようになってきた、鳴宮はそういう人間だ。


「やだ、二日酔いで頭痛そうな藍野くんにくっついて寝るの〜」


「完全にわかっててやってるじゃねぇか……」


「まぁ妻だからね。全然知らない男なんかと結婚するわけないじゃない」


「その割には唐突だったな」


「……理由知りたい?」


 先ほどとは一転。

 こちらを伺うような、一歩引くような、不安が滲んだ声。


 きっと「今結婚しないと自分が結婚する未来が見えなかったから」とかじゃないのか?

 打診ありきなら嫌われるとでも思っているんだろうか。


 計算上等、俺たちも夢見る子どもじゃいられない年齢だ。

 無限に広がるような数年後の未来ではなく、今目の前にある数字と格闘する、社会人とは戦士なのだ。


 だからいつかは聞かせて欲しいと思う、彼女が俺を選んだ理由を。

 今じゃなくていい、いつかでいいんだ。

 なにせ時間は沢山ある。


「鳴宮の言いたくなった時でいいよ」


 身体を転がして彼女と向かい合う。


「ありがとね、そういうところも……」


 薄く水分を含んだ瞳が揺れた。


「そういうところも?」


「やっぱり言わない!初めてはあなたから聞きたいもん」


 俺の腕をむぎゅっと抱え込むと鳴宮は顔を背けた。

 同じ布団で寝て同じご飯を食べて、同じ空間で息を吸う。きっと夫婦になるというのは、こういうこと。


 違う方向を向いていた俺たちが、企画課では背中を預けあって、今は同じ方向を向いて歩こうとしている。


 段階を飛ばしすぎだと思うのだ。


「いつかな」


「んふ、これでわかるんだからあなたも相当ね。私の頭の中覗けるんじゃないかしら?」


「そんな……鳴宮じゃないんだから」


 本来踏むべき「お付き合い」を俺たちは経ていない。

 でもちゃんと夫でいようと決めたわけだ。


 ならばすることはひとつ、背中を預けるでも同じ方向を向くでもない、彼女と向き合って、好きなことや嫌いなこと、善し悪しの価値基準、そして行動原理を知るという一番大切なステップを踏もうじゃないか。


 そのためにもまずは行動から。


「なぁ鳴宮」


「なーに?旦那様」


「二日酔いの時は味噌汁って言うだろ」


「藪から棒に……えぇ、確かにそうね」


 彼女は身体を左右に揺らしている。

 焦らなくていい。


「具で言うなら俺は豆腐が好きなんだけど、ひな(・・)は?」


 数瞬、言葉が宙に舞った。


「〜〜っ……私はなめこかな」


「なめこもいいな〜〜」


 簡単なことから始めようか。


「んじゃ、今日はなめこの味噌汁にしよう」


 俺はまだ妻のことを知らなさすぎる。

 胸を張っていつか夫だと名乗るために


 ぐぐっと腕を伸ばして、身体に起床の合図を送る。


「あのね藍野くん」


 同じように彼女も身体をぐっと伸ばしている。


「私もあなたのこと、ひとつずつ知りたい」


 どうやら俺の意図は正しく伝わったらしい。

 それに応えてくれる鳴宮が愛おしい。


「約束する。今はまだ恥ずかしくてできないけれど、いつか必ず私の心の奥の奥まで全部をあなたにあげる。必ずね」


 やけにはっきりとした声で彼女はそう言った。


「ま、とりあえずは朝ごはんだ」


「そうね!飲んだ次の日ってどうしてこんなにお腹が空くのかしら」


 張り詰めた空気は弾けてどこかへ飛んでいく。まるで手を離した風船みたいに。

 こうやって緩と急を繰り返しながら進んでいくんだろう。


 俺たちは向かい合って笑うと、せーので身体を起こした。

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