第34話
人の波に逆らわないよう外に出ると、すっかり涼しくなった空気が俺を歓迎してくれる。
遠くで虫の声が聞こえるのは、きっと秋がその存在を主張しているから。
「はぁ〜〜食べた食べた!」
俺より少し後に出てきた花巻が俺を見つけると、お腹をさすりながら近付いてくる。
「どう?ひなちゃんと上手くいった?」
「まだ喋ってねぇよ。お前逃げやがって」
「流石にね〜〜〜怖いし!ご機嫌取り頑張ってよ。あ、二次会は?」
店からでてきた社員たちは、各々小さな円になって道の端に寄っていく。
花巻の言うようにここからはおそらく任意参加の二次会が始まるのだろう。
「今日は遠慮しておこうかな、幹事を連れて帰るよ」
「きゃー!ちゃんと旦那様してるじゃん!」
「そりゃな、仮にも」
おっと危ない、口が滑るところだった。
やはり酒はだめだ、自制心がゆるゆるになっている。
「夫婦だから、でしょ。妬けちゃうわ。あーあ、甘々な同期を見せられた腹いせに後輩にお酒奢っちゃお〜〜!じゃあね藍野!」
花巻はそう言い残して、ずんずんと輪の中心に消えていった。
元気だなあいつ……二次会で楽しむのはいいが、デカい声で俺らの秘密を暴露するのだけはやめてくれよ。
次第にみんな何人かで連れ立って夜の街へ消えていく。
誰かに絡まれないよう路地に入ってそれを眺めていると、先輩が近付いてきた。
「お、藍野まだ残ってたか」
「はい、結構飲んだので……ちょっと休憩を」
「駅前の居酒屋で何人かで飲むけど来るか?」
思い出すのは妻の顔。
多分今日は前に出ずっぱりだったから疲れているだろう。
どうせお偉い様方にビールを注ぎに行って、そのまま自分でも飲んでるだろうからべろべろなはずだ。
ならば夫としてすることはひとつなわけで。
「すんません、家で妻が待ってて」
「そうだ、お前既婚者じゃん!さっさと帰りな〜」
「また行きましょう」
「おう、企画コンペ通ったやつが一段落したら美味いとこ連れてってやるよ」
やっぱり先輩は仕事してる時とそうじゃない時で別人みたいだ。
そんなことを考えながら、未だ店から出てこない今日のMVPを待った。
◆ ◇ ◆ ◇
「あーいーのくん!」
周囲に誰もいなくなったところで、腰に衝撃が走る。
甘い香りに柔らかな感触。
「幹事お疲れさん、鳴宮」
「ほんっとね〜疲れた!どうして忙しい時期に大きな飲み会の幹事とかさせるかな〜」
淡いアルコールの匂いが鼻を通り抜ける、彼女も結構飲んだのだろう。
というか幹事組は幹事組で二次会やったりしないのか。
「鳴宮は二次会行かなくていいのか?そこかしこで発生してそうだけど」
「いいの!私には他にもっと優先度の高いことがあるの。あ、二人で飲みに行くんだったらありよ?こっそり二次会しちゃう?」
腰に回されていたはずの腕は、いつの間にか俺の腕を絡めとっている。
涼しくなった空気に抵抗するかのように、触れている部分が熱を持つ。
「……店探すの面倒だし、やるなら適当にコンビニでツマミ買って家でするか」
「さーんせい、そうしましょ!私たちは終電気にしなくていいもんね〜。夫婦だから……夫婦だから!」
「二回言わなくてもわかってるって」
最近やっとわかったんだ。夫婦ということを、その喜びを。
◆ ◇ ◆ ◇
酔いどれホームに滑り込んだ電車に身を預ける。
隣に座る鳴宮は顔を赤くして頭を振っている。まるで頭上で揺れる吊革につられるかのように。
「あいのくんは、もっと自覚を持つべきだと思うの」
ふにゃふにゃの声で彼女は言う。
なんの自覚だ。経理課の?企画課の?社会人としての?それとも……。
「もちろん夫としての」
「ナチュラルに思考を読むな」
「んへへ〜」
電車のブレーキに引っ張られて身体をこちらに倒す鳴宮。
もう横方向への加速度は感じないはずなのに、くっついた彼女は離れない。
「外だぞ」
「どうせ誰も見てないわ……あら、その言い分だと家ならくっついてもいいの?」
鳴宮はこちらを見ずにぽしょぽしょと呟いた。
自分の身体を通じてその声が届く、どこかこそばゆい感覚。
「……節度を守ってなら」
というか朝はいつもくっついてるだろ。抱き枕か俺は。
あれで起こされるんだからな。
「最近夫のデレが多くて助かるわ〜あ、でも浮気はだめよ?安定とは刺激への免罪符ではないわ」
膝に置かれた指がトントンとリズムを刻む。
おいおい流れ変わったな。酔ってるくせに難しいこと言ってるし。
「しないししてないって」
「どうかしらね〜〜藍野くん人気だからなぁ」
楽しそうな声。
これは俺、遊ばれてるな。でもそれに乗るのも一興。
「それを言うなら鳴宮だろ」
企画課のメインウェポン、顔よし性格よし業績よし。
最近結婚したことを除けば超優良物件。
これまでなら「どうして俺なんかが」なんて思っていたんだろう。
だが今は違う。手綱はしっかり握っておくつもりだ、できるならこの手で彼女の心まで。
「『ひな』ね?」
突然圧の強い声出すのやめてくれ、怖いから。
「……それを言うなら、ひなだろ」
「んふ、よろしい」
俺がよろしくないんだよ。
前から酔ったらこんなになってたっけ……?
「でも人事課の後輩さんにデレデレしてた藍野くんはギルティだと思うの」
「普通に話してただけだって。花巻が連れてきたし」
「しずくちゃんを言い訳にしちゃだめよ〜〜!というか、私のいないところで他の女の子とお酒飲むなんてだめじゃない」
急に飲み会を封じられた。
そりゃサシ飲みなんてしようと思ってもできないけど……いや、本当にしようとは思ってないからな。でも複数人で飲んだら女性がいることもあるだろ。
つまり、
「もう何言っても有罪じゃねぇか」
「裁判官は私だからね。しっかり償ってもらうわよ、一生かけてね」
弾劾裁判はよ。満場一致でその裁判官を辞めさせてやる。
短く息を吐くと、彼女は目を閉じた。
穏やかな雰囲気の中に見え隠れする芯の強さ。
一瞬だけ、ほんの一瞬だけ時間が止まったような感覚に襲われた。
きっとそれは彼女の表情のせいで。
あのまとわりつくじっとりとした空気も、今となっては消えたはずなのに、首筋に汗が浮かぶ。
「それで少し前の私は思ったの。どうすればあなたを他の人に奪られないかなって」
きっと答えがこの左薬指だ。
泥酔しているとは思えない真っ直ぐな瞳に自分の顔が反射する。
まったく馬鹿な心配を。
この心が彼女以外に向くことなんてないのに……ただ、それを口にできるかどうかは別の話。
心のうちなんて知らない彼女は、俺の指を撫でながら唇を耳に近付けて囁いた。
「あなたはもう私のものなんだから」




