第30話
「失礼します」
扉をくぐれば久しぶりの景色が目に入る。
鳴宮とコンペに通った企画の打ち合わせをしようとチャットすれば、企画部屋でやることに。
半分企画の人間として、またこの部屋に来ることになるとは思いもしなかった。
「来たわね、藍野くん」
「なんだか新鮮な感じするな、訂正して欲しい書類を持ってないところとか」
ちょっと照れくさくて、ついつい冗談が口をつく。
「もう企画の人間だもんね〜〜!みんな、藍野くんが帰ってきた!」
部屋の奥に向かって叫ぶ鳴宮。
やめろやめろ恥ずかしい。
ザワザワしていた企画部屋が一瞬だけ静かになる。
ほら、みんな仕事とか打ち合わせしてるところで大きい声出すから……。
いたたまれない気持ちになっていると、ドドドドっと足音が。
奥からかつての同僚たちが入口に集まってくる。
「お〜遂に帰ってきたか〜」
「元気にやってるか」
「やっぱりお前は経理じゃなくてこっち側だと思ってたぞ」
「また一緒に馬鹿やろうぜ!」
懐かしい面々が、それぞれ一言口にして元いた場所へと帰っていく。
突然の洗礼に呆然とする反面、状況をいち早くした脳神経によって視界が滲んだ。
「ね?」
俺の気持ちなど言わずともわかると、彼女は片目を閉じた。
鳴宮との打ち合わせは呆気ないほどすぐに終わった。
そりゃそうだ、二人で企画を考えているんだから、方向性なんてとっくの昔に擦り合わせできているのだ。
鳴宮曰く、既に人員やら会場関係の業者には連絡を回しているらしい。
さすが百戦錬磨、抜かりがない。
しかも片方は、というか俺だが、経理課の人間でもある。
自分の企画で予算を下ろすなんて赤子の手をひねるより簡単だ。
あれ?自分が企画課にいたときよりスムーズじゃないか。
「なんだか拍子抜けするほどスムーズね」
「本当にな。まぁ普段は一人でやってる仕事を、要領がわかっている人間二人でやってるからなぁ」
「そこは『夫婦だからだよ、ひな』でしょ?」
声を低くして彼女は言う。
「久しぶりに聞いたな、その似てない俺」
「だから藍野くんがこれを藍野くんだと認識できてる時点で私の勝ちなの」
「なんて不毛な勝負なんだ、しかも鳴宮論でいくと俺はずっと負けっぱなしじゃないか」
「あら、藍野くんが理想の私の真似をしてくれてもいいのよ?」
理想の鳴宮か。
一瞬だけ考えを巡らせれば、答えはすぐに出る。
「……非常に業腹だが」
「む!これは私が褒められるオーラを感じたわ!さぁさぁ、早く」
どこにどんなアンテナが頭に付いているんだ。
わちゃわちゃと騒いでいると、俺たちの後ろを先輩が通りがかる。
「おー、その同期コンビも久々だなぁ……俺も歳をとったもんだ」
何と返したらいいかわからない一言を置いて、彼は遠くに行ってしまった。
完全に行き場をなくした俺の言葉は、喉に吸い込まれる。
「……続きを聞かせて、旦那様」
「旦那様って呼ぶな、会社だし、最悪なことに企画課だぞここは」
企画課連中(課長除く)に俺たちの結婚がバレてみろ、昼休憩を挟んだらもう全社の共通認識だぞ。
たとえ気持ちか彼女の方を向いたとて、会社でバレるのまで許せるかと言うと、そうではないのだ。
「そんなことはどうでもいいの、ほら、私褒められ待ちなんだから!」
「今のお前が理想だよ」なんて恥ずかしい言葉、勢いがなければ口にできないのだ。
「あー……ちょっと機を失ってしまってな……」
「なんでよ!え、もしかしてさっきの先輩のせい?私行ってとっちめてくるわ!」
「やめろやめろ、誰も得しない言いがかりじゃねぇか」
「少なくとも幸せを感じそうだった私の心の溜飲は下がるわ!」
今にも走り出しそうな鳴宮を捕まえて、どうどうと落ち着かせる。
いつから俺は馬乗りになったんだよ。いや、むしろ闘牛か?
だめだ、これ以上考えるのはやめておこう。思考を読める(らしい)鳴宮のことだ、なんて怒られるかわからない。
「ふぅ」
満足気にため息を吐く鳴宮。まるで余韻を噛み締めるかのように。
スンッと真顔に戻って、彼女は椅子に座る。
「どうした、突然落ち着いたな……え、不安になるんだけど」
「抱きしめてもらえたから。やっぱ夫婦のコミュニケーションは大事よね〜〜!」
「とりあえず静かにしようぜ、やばいって。ここ企画課、家じゃない」
「んふ、はいはい仰せのままに〜旦那様」
だからその呼び方が不味いんだって。
◆ ◇ ◆ ◇
「じゃあこっちで巻けるところはさっさと巻いとくわね」
「あぁ頼んだ、予算系は一旦こっちに全部任せてくれ」
概ね決めなければならないことはすべて決まった。
あとはお互い行動に移すだけ。
本当に懐かしい。
ここからは大変だけど、やんわりとお祭りのような高揚感が続くのだ。
頭で構想を練ったものが現実になるという体験は、何度やっても身震いするほど楽しい。
そんな感覚も半分企画課で半分経理課の今しか、もう今しか感じられないのだろう。
「あ、藍野くん。今から経理課行く?」
戻るではなく、行く。
自分の気持ちを、少なくともこの世界で一人は絶対に知っている状況に、感謝すべきなのか否か。
ふと気がつく。
俺のことを理解してくれる彼女には、果たして理解者がいるのだろうかと。
一人で最前線を走る鳴宮は、良くも悪くも孤軍奮闘。もし彼女が疲れた時に、休める止まり木はあるのか。
……誰に言われなくともわかっている。その役目を負う人間が誰なのかを。
「じゃ、この請求書持ってって〜!」
前言撤回、俺の気持ちなどお構い無しに折りたたんだノートPCの上へどさどさと乗せられる書類。
そんなことするから、他の先輩たちもどんどん俺へと書類を渡してくる。
どうして企画課に来たのに経理課の仕事が増えるんだよ。
とぼとぼと歩いて企画課を後にする。
仕事を終わらせれば仕事が降ってくる。まこと、この世の中は上手いことできているものだ。
そんな諸行無常を感じながら廊下を進んでいると、背中に気配を感じた。
「こっちまで来てくれてありがとね」
早足で来たのだろう、頬を少し赤くした鳴宮が膝に手をついていた。
「いや、全然……どうした、何か渡し忘れとかか?」
「渡し忘れ、というより言い忘れ?」
「どうしてお前が疑問形なんだ」
彼女はきょろきょろと周りを見渡すと一歩、大きく一歩踏み出した。
俺と鳴宮の距離はほとんどゼロ。
いつもの甘い香りが、柔らかい髪が鼻先をくすぐる。
俺の耳元に寄せられる口。自分の心臓の鼓動が彼女に聞こえていないか心配になる。
「家ではたくさん褒めてね?」
彼女の頬が赤いのは、急いで追いかけてきたから。
じゃあ振り返り際に見えた耳が、これから来る季節にぴったりな色をしていたのは。




