第25話
「「いただきます」」
一人で手を合わせるよりも大きな音が部屋に響く。
普段ならば会社にいる時間なのに、家で鳴宮と向かい合っている。
変な感じだ。まるで小学校を休んだ時に、普段見るはずのない番組を見ているかのような。
「あの、包むの失敗しちゃったのとかは私が食べるからね?」
ところで、これが愛情だと思う。
大きな花束や高価なアクセサリーを贈ったり、二人でお高いホテルに泊まったり、海外旅行で豪遊する。
確かにそれも愛情の一つの形だろう。
お金じゃ愛を買えないけど、育てることはできる。
しかし、しかしだ。
それに劣らず、一緒に寝た布団を畳んだり、家を出る時に「いってらっしゃい」と声をかけたり、相手の食べたいものを作ったりするのもまた、愛情だと思うのだ。
皮から餡がはみ出た餃子を一つ摘んで酢醤油を付ける。
ちょっと不格好な旨みの爆弾は、わざわざ仕事を抜け出して鳴宮が俺に作ってくれたものだ。
それはそれで愛おしくて、それがいい。
「あ、藍野くん!失敗したのは私のだって!」
「いーや俺のだね」
他の人には渡したくないと思う。
もちろん「何が」とは言わないが。
あわあわしている鳴宮を横目に餃子を口の中へ放り込んだ。
酢醤油の深みとほんの少しの酸っぱさ、噛むと溢れる肉汁が口の中を満たしていく。
ニラ独特の味やタケノコのコリコリとした食感に、先ほど声を上げていた胃さんもニッコリだ。
文句なしに美味しい。
「美味しいよ、鳴宮」
「〜〜〜っ!よかった……」
胸に手を当てて彼女は息を吐く。
「そんな、普段作ってくれる時も美味しいぞ」
「いつも言ってくれるけど、毎回不安なのよ。自分以外の誰かのために料理することなんて今までなかったから」
「確かに……俺も実家でちょっとやるくらいだったわ。というか、そう言われると今度から俺が作る時に緊張しそう」
鳴宮は目をぱちぱちと瞬かせて、ふっと唇を持ち上げた。
ベランダから流れ込んだ光が彼女照らしている。
「あなたのもいつも美味しいわよ」
そう口ずさむと、鳴宮も丁寧にお箸で餃子を摘んだ。
◆ ◇ ◆ ◇
「あ、ねぇこっち来て」
きゅっきゅっと甲高い音に重ねるよう、彼女が口を開いた。
満腹の充足感も落ち着いてきた、椅子から立ち上がってキッチンへ。
水切りかごに積み上がったお皿が、二人で暮らしていることをこれでもかと主張している。
一人だと見られない光景だ。
「悪いな、洗い物まで全部」
「んふ、こういう時くらい甘えてよ。普段は全然家事させてくれないんだから」
「仕事から帰ってきてもやることないからな」
「私と結婚するまでどんな生活してたのよ……」
呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな声が耳朶を優しく撫でる。
はて、そういえば十年足らずの一人暮らしでは何をしていたっけ。
簡単には思い出せないほど、彼女と結婚してからの彩度が高い。きっとそれはつい最近の話だからという理由だけじゃない気がする。
真っ白な手が、まるでオーケストラを操る指揮者のように宙を舞う。
多分前までだったら身構えていただろう。
やがてこちらへ漂ってきた手は、俺の額に着地した。
洗い物で水に触れていたからだろう、冷たい感触が籠った熱を奪っていく。
「気持ちいい?」
「おう」
「どれくらい?」
どれくらい!?言葉にするのは難しいな。というか自分の感覚の尺度を誰かに説明なんてする機会ないよな。
冷たくて気持ちいいといえば……。
「サウナで限界になってから五分間粘りに粘った後、水風呂に飛び込むくらい」
「妙に具体的で分かりやすいところが逆に嫌ね……もっと甘い言葉を期待してたんだけど」
「俺に言えると思うか?」
「今のあなたなら」
即答かよ。
脳内を駆けずり回っても、それらしい言葉は見つからない。
彼女から離れようと身体を引いたところで、身体がふらつく。まずい、自分が病人だってことを忘れていた。
「っ、ちょっと大丈夫?」
腰に腕が回されて、意外にも強い力で引き寄せられる。
「すまん、助かった」
「もう、あなた熱あるんだから!……でも支え合うってこういうことでしょ?」
強制的に自分にはない造形美を見せつけられている。
「頼ってばっかりな気もするが」
「私もあなたに頼りっぱなしだって。お互いそう思えてるのがいいんじゃない。まさに病める時もってね。だから、」
ゆっくりと熱が遠のいていく。心の距離はむしろ縮まったはずなのに。
名残惜しさが手に残る。
「だからさ、いつか言ったみたいに大変なプロジェクトの時にも、あなただけは隣にいてね?」
鳴宮はどこか含みを持たせた笑みを湛えてそう言った。
ああ、そんなこともあったっけ。変な誓いを交わしてしまったものだ。
「ほらほらーとりあえず寝室行きましょ。今は身体を休めるのが一番大事なんだから」
ぐいぐいと背中を押される。
思えばいつもは前から引っ張ってもらうから新鮮だな。
「早く治してね、それでまた一緒に……」
「一緒に?」
「お仕事しましょ!」
「こんな時まで仕事かよ!この労働ジャンキーめ」
「ふふっ」
そこからの記憶はあまりない。
気がつけば冷房の効いた薄暗い部屋で、いい香りのする柔らかい髪に頬をくすぐられながら、布団にくるまっていた。
微睡む意識の中で彼女への気持ちが浮かんでは揺れる、まるで大海原を宛もなく漂うくらげみたいに。
まだ淡い淡い種は、ゆっくりと育てよう。
もしこの結婚を偽装と言うならそれでいい。
それでも半分だけは……少なくとも自分だけでも誠実に彼女に向き合ってもいいと思うのだ。
今は鳴宮がふざけて俺のことを「旦那様」だなんて呼ぶけれど、いつかは本気で、いつもとは違う声色で「あなた」と呼んでもらえるように。
成り行きで始まってしまった嘘の関係が、いつか本物になるまで、ひとつずつ積み上げていこう。
そんな小さな決心を胸の深い深い底、心の引き出しの一番奥に大切にしまって、穏やかに寝息を立てる鳴宮の顔を眺めた。




