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第23話 そして鳴宮ひなは決意した。

side:鳴宮ひな


『何か食べたいものはある?』


 会社を早退して、冷房の効いた部屋で布団にくるまっているはずの旦那様にチャットを飛ばしたのも1時間ほど前。


 自動ドアを潜れば天国が待っていた。

 全方向にばら撒かれる冷たい風を顔で受け止める。これにいくらかかってるのかしら……なんてことは考えちゃいけないんだろう。


 ここは平日昼間のスーパー、心なしか自分より年上のマダムが多い。


 一人暮らしの時は残業終わりに寄ることが多かったから、訪れる客層の違いに驚いてしまう。

 まるで自分がここの正規の住民ではないような感覚。


 カートに買い物カゴを乗っけて転がしていく。

 スポーツドリンクに冷えピタ、あ、足りなかったごみ袋も買っていこうかしら。


 棚を通り過ぎながらぽいぽいっと商品をカゴに敷き詰めてると、ポケットが震える。


『ぎょうざ』


 スマホに表示されたのはたったの4文字。

 それだけでも嬉しくなってしまうのだから、私も来るところまで来たわね。


 カートをくるっと反対方向に向けて、一度は通り過ぎた野菜コーナーへ。

 そんな重いものも食べられるんだ、とか野菜も入ってるし栄養満点でいいかも、なんて病人に餃子を食べさせることの正当性を理性が問うてくる。


 でも結局のところ、彼が食べたいものを食べるのが一番ね!

 高級なお寿司よりカップラーメンが食べたい時だってあるし。

 ……誰の手料理がお湯を入れて3分のお手軽さよ!

 なんて、まったく益のないツッコミが頭を走る。私ってばちょっと浮かれてるのかしら。


 ニラやキャベツ、ニンニクを手に取って、次はお肉のコーナーへ。

 段々と重たくなるカートに彼を思い出す。

 そうだ、最近ここに来る時はいつも藍野くんが押してくれてたっけ。


 お会計を済ませて再び灼熱の世界へ舞い戻る。

 ジリジリと肌を焼くのは太陽だけではない。アスファルトから立ち上る熱気に頭が蒸されそうだ。


 もういっそ地球を大きな冷蔵庫に入れればいいんじゃないかしら?

 そんな馬鹿げた発送が浮かんでは消えていく。


 歩けども歩けども家は見えてこない。いつもなら耳に入るはずのはずの低めの笑い声も、今日は聞こえない。

 一人で歩くのってこんなに寂しかったっけ。


 思い出すのは、私がまだ入社したてで独りだった頃の記憶。

 あれも暑くて熱い夏の日だった。


◆ ◇ ◆ ◇


「はぁ、どうして通らないの……」


 誰もいなくなった、いや、正確には私の斜め後ろの席に一人残ってるか、企画部屋でぽろりとこぼす。

 きっとデスクに落ちたのは言葉だけじゃない。


 にじんだ視界のせいで、モニターに映った文字は読めなくなった。


 ぐすぐすと鼻を啜りながらも、キーボードに乗せた指を動かして明日の企画会議の資料を作っていく。

 ここに入社してから、まだ一度も自分発案の企画が通っていない。


 上司も先輩方も優しいが、こと仕事に関しては妥協がない。

 そりゃそうだ。企画一つとっても、自分が学生だった頃には考えられないような予算が動く。


 こいつの案になら任せていいと、そう思われたくて自分なりに研究はしてみても、中々奮わない日々が続いていた。


 後ろで物音がしたかと思うと、彼は立ち上がってドアへと歩いていった。


 藍野君。


 自分と同期で、目立つようなことはしない人だけれど、すぐに先輩たちと仲良くなって、この前は遂に企画会議に一本通して……。


 私とは住む世界が違う。

 たくさんいる同期の中でせっかく私たち二人だけが企画課に配属されたんだ。

 話した方がいいのはわかっているけど、自分のコミュ力のなさで一歩踏み出せずにいる。


 画面の中のグラフや文字から逸らした目が、無意識に彼を追う。

 藍野君は定時を超えて全館一斉に止まった冷房を再びつけると、こちらへ帰ってきた。


 バチン、と合う視線。

 ここで話しかけなきゃ私はずっとこのままだ……!


 焦りと恐れと……ほんの、ほんのちょっとの期待が喉を焼く。

 プレゼンの時よりも速いスピードで脳が回る。


「あ、あの、コーヒーってブラック派?」


 掠れた喉から出たのは、彼が手に持つ缶コーヒーの話。

 どうしてこんなに気が利かないんだ私は。


 彼は足を止めると手元に視線を落とす。あぁ、変な子って思われちゃった。


「そうだな、コーヒーはブラックが一番好きかな。鳴宮さんは?」


「そ、そう、私はいつもカフェオレとかにしちゃうんだよね」


 会話が終わる。

 微妙な空気を取り繕うための言葉を、人生経験の浅い私は持ち合わせていない。


 本当に聞きたいことなんてひとつなのに。


「あ、あの」「なぁ」


 重なる声、その後の静寂に響く冷房の音がやけに大きく聞こえた。

 藍野君は手をこちらに差し出す。


 長くて私のよりかなり大きな手。


 どうやらこちらが喋っていいらしい。部屋には私たち以外誰もいない……聞くならここだ。


「恥を忍んで聞くんだけれど、どうやったら企画会議って通るの……?」


 彼は目を丸くしたかと思うと、眉尻を下げて笑った。

 馬鹿にされるかと思って目をぎゅっと閉じる。


 きっと他の人から見れば大したことじゃないんだろう、だけどこれ以上自分のメンタルにヒビが入れば、割れてしまう。


 果たして彼が口にしたのは。


「恥なんかじゃない。俺だって全然わからなくて先輩に聞いたし……俺は鳴宮さんの案、悪いとは思えないんだよ。後は伝え方だけかなって」


 キャスター付きの椅子を滑らせて、藍野君はこちらに身を寄せる。

 こんな時間なのにまだしっかり締めたネクタイ、柔らかそうな髪、遅れて淡い柔軟剤の香りが私の鼻を通り抜けた。


「それ見せてよ、明日の会議資料だよね?」


 そこから彼は私の資料や原稿を見ながらアドバイスをくれたり、練習って言いながら私のプレゼンを見てくれた。

 自分の仕事があるにも関わらず、面倒だなんて微塵も感じさせないような顔で。


 藍野君が言うには、派手さや鮮やかさは大事だけど、どこに重きを置くのか、それがどうやって実現されるのかが大事らしい。

 確かに私は、すぐ現れる結果ばかりに捕らわれていた。これからの会社にどう良い影響を与えられるかまで考えないといけなかったのだ。


「ま、俺も先輩から聞いたことをそのまま話してるから、偉そうなことは言えないけど」


 照れくさそうに笑った顔。

 まるで地面に叩きつけたスーパーボールみたいに飛び上がった、しかし決して嫌ではない心臓の脈動を、私はこの先ずっと忘れないだろう。



「それでは、私からの提案を終わります」


 翌日、私の案は先輩方絶賛の中採用されることになった。

 私史上初の快挙、その後の仕事が手につかなくなるくらいの充足感に満たされる。


 昨晩の寝不足も相まって変なテンションだったんだろう。席に戻った時、思わず彼に拳を突き出してしまった。

 この喜びと感謝を伝えたくて。


 勢いよくグーを突き出してから気付く。

 ほぼ初対面みたいなものなのに、踏み込みすぎただろうか……。


「ほらな!やっぱり鳴宮の企画、悪くないじゃん!」


 彼はまるで自分のことかのように喜びながら、私の拳に拳を合わせてくれた。


 その時から、あぁ今思えばその時から。

 私の中で藍野君は藍野くんになったのだ。


◆ ◇ ◆ ◇


 懐かしいことを思い出していたら、いつの間にか見慣れたドアが目の前に現れた。

 鍵を差し込んで、手に少しの重みを感じながら回す。今は彼と二人で住むこの家は、間違いなく私の心の砦だ。


「ただいま〜」


 声を上げるも返事はない。

 とりあえず食材は冷蔵庫へ。餃子を包むのはもう少し後にして、まずは彼の様子を見に行こう。


 なるべく音を立てないように廊下を歩く。

 私の動きに合わせて点灯する照明。


 普段はなるべく彼より先に帰って、仕事終わりの彼をいち早く摂取……んん、迎え入れたいとは思ってるんだけど。


 寝室のドアを開ければ、冷房の音に紛れて彼の寝息が聞こえる。

 よかった、朝よりも楽そうだ。


 彼を起こさないように枕元に腰掛けて、規則正しく上下する胸に手を当てる。

 藍野君が藍野くんになってから数年、二度目の勇気を出した私のおかげで、こうやって一緒にいることができる。


 でも彼が本当の意味で私を好きになることは、この先ないのかもしれない。

 理由は簡単。


「この結婚が偽装だって私が言ったから、だよね」


 思わず漏れてしまった呟きは、誰かさんの耳に入ることを拒んで空中を漂った。


 外形上の関係を先に構築してしまったが故に、内面的な関係の構築の難易度が跳ね上がってしまった。

 それもこれも馬鹿なことを考えた私が悪い。


 ……他の人が藍野くんを狙ってるって聞いた時、冷静じゃいられなかったのだ。

 仕方ないじゃない、昔から彼の良さをずっと知ってるのは私なんだから。


 でももう昔みたいに何もできない私じゃない。

 彼のおかげで最初の、そして最大の一歩を踏み出せた私に、もはや不可能はないと信じている。


 だから、だからいつかこの偽りの結婚が本物になるまで、半分だけ本気の茶番に付き合ってね。


 もにょもにょと口を動かす彼の頬に顔を近づける。

 いつか香った柔軟剤の匂い。


 熱を持った赤い頬に、私は唇を落とした。


「あの時から今までずっと、そしてこれからも大好きよ、旦那様」

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