第17話
『……今日遅くなるの、ごはんも食べてくるわね』
そんなチャットが俺のスマホに舞い込んだのは、とある金曜日の昼下がり。
別にいつも通りなはずだが、違和感を覚える。テンションが低いような、どこか苦虫を噛み潰したような。
『了解、残業か?』
『そうとも言うし、そうじゃないとも言う』
なんだ、煮え切らないな……。
スマホを伏せてキーボードに向かえば、頭に一筋の電流が走る。
あー、そういえばあの完璧超人にも苦手分野があったな。普段の仕事ぶりがすごすぎて忘れていた。
接待だ。
俺が企画課にいた時も、彼女はなんとか接待行かずに済む方法はないかと試行錯誤してたなぁ。
曰く、「私に思ってもないこと言えってこと?」とのこと。その通りだよ、それで仕事がうまくいくんだから。
『接待だな?』
『うぅわかるのね、さすが旦那様。あ〜〜本当に嫌……あ、藍野くんが言いたいこともわかるわよ。「俺という男がいながら他の人と飲むなんて」ってことよね……ごめんなさい。でも仕事だから仕方ないの。いや、やっぱり新婚で早く帰りたいのでって言って断ろうかしら』
いつになく饒舌だな。
画面の向こうでとんでもないスピードでスマホに指を走らせる鳴宮を想像して、口の端が持ち上がる。
どれだけ行きたくないんだよ。
『つべこべ言わず言ってこい』
『はい(´;ω;`)』
哀愁漂う返事を最後に、覚悟を決めたのか彼女からの返事はぱたんとなり止んだ。
◆ ◇ ◆ ◇
『う〜〜〜!終わった!藍野くん成分が足りないわ!早く会いたい!!!』
晩ご飯とお風呂を終えて寛いでいると、大層ストレスが溜まったチャットが飛んできた。
時刻は22時になろうとしている。
経理にいれば接待なんて一つもないから気楽なものだ。
どれだけ美味しいご飯が出てきたとしても、仕事の話やおじさんの自慢話ばかり聞くなら味も落ちる。
『頑張って帰ってきてくれ、今日もおつかれさん』
『返信が早い!もしかして私のこと首を長くして待ってた……?』
まったく。なんでも都合のいいように捉えるんだから。
『んなわけないだろ』
『そこは嘘でも「そうだよ、ひな」って言うところでしょ』
こいつの中の俺はどんなイケメンなんだよ。
『酒は?』
『飲んだわよ、ほんの少しだけ。う〜〜〜楽しくなかった……』
Q.一週間の疲れが出る金曜日に、苦手な接待を乗り越えた妻がいたとして、夫がするべきことは?
アンサーなんて決まりきっている。
俺はスマホと財布、車のキーだけ持って家の扉手を掛けた。
◆ ◇ ◆ ◇
バタン、と重い音を響かせて車のドアが閉まる。
外に出た瞬間汗ばむ肌、風呂に入りなおしだなこりゃ。
駅近くの繁華街は金曜夜ということもあって賑わっている。
目線を左右に振れば、誰かに話しかけられている鳴宮が視界に映った。一人にするとすぐこれだ……彼女が感じているであろう生きづらさに同情する。
「すんません。それ、うちのなんで返してもらっていいですか」
ナンパしている男性と鳴宮の間に身体を滑り込ませる。
「誰、おっさん」
「おっさ……!おいまだ20代だぞこっちは。仕事で疲れた身体に鞭打ってわざわざ嫁を迎えに来てんだ。ほらしっしっ!」
数秒の沈黙。
俺とナンパマンの視線が交錯する。
やがて彼は諦めたように帰っていく。
ふぅ、とため息が漏れる。なんで休み前の一番心休まる時間にこんなことしないといけないんだ。
「んっふふ〜!今日は接待してナンパされて最悪な日だったけど、今この瞬間に最高の日になったわ」
彼女は軽く腕を絡めると足を踏み出す。
「普段の鳴宮の苦労がちょっとだけわかった気がする……顔がいいって大変だな」
「ま、そんなの言ったら顰蹙買うから言わないけどね〜!それにいいの、おかげで素敵な旦那様と結婚できたんだから」
鼻歌混じりの言葉が週末の夜に浮かんだ。
彼女は気付いていないらしい。俺が結婚を決意したのは、何も彼女の外見に惹かれたからじゃないのに。
「別にお前がどんな顔でも、多分結婚してたぞ」
車のドアを開けると、彼女を迎えに来た時よりも心なしから軽く感じる。
運転席に座ると、白い指が頬を掠めた。
「〜〜〜ねぇ藍野くん!」
「ん?どうした鳴宮」
振り向けば、予想以上に近くに迫った顔。
しわ一つない陶器のような肌が視界を覆う。
「私、幸せかも……」
見たことがないほど満面の笑みを浮かべて、鳴宮はため息とともに言葉を吐き出した。
そこから家までの道は賑やかなものだった。
口にスピーカーでも付いているのかと思うほど、とめどなく話し続ける鳴宮。
「それにしても不断の努力で人は変わるのね」
赤信号にブレーキを踏むと、ふと訪れる沈黙。
「今って煽られてる?」
怖いから誰のどんな努力かは聞かないでおこう。
「まさか。褒めてるわよ……あ、そのうち今度のコンペに出す企画の打ち合わせしなきゃね!」
「仕事終わったばっかりなのに、もう次の仕事のこと考えてるのかよ」
「止まると生きていけないから」
「マグロか?」
「失礼ね!確かめてみる?」
車に乗った時と同じように手が左側から伸びてくる。
こら、運転中は危ないからやめなさい。
こいつ酔ってるだろ、絶対。
結局俺は彼女の手のひらの上で踊るしかない。しかし、どうせ踊るなら上手くやりたいものだ。
家に着く頃には、いつの間にかくぅくぅと寝息を立てている鳴宮。ったく、まるで子どもみたいだな。
彼女を起こさぬよう、俺は車をゆっくり駐車場に滑り込ませた。
もう少し眺めていたい気もするが、寝るならベッドの方が疲れもとれるしな……なんて、いつの間にかまるで夫婦みたいなことを考えている。
ずっとここにいる訳にもいかない、意を決して俺はシートベルトを外した。
「着いたぞ、鳴宮。起きてくれ」




