表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/47

第16話

 両手が戦利品で塞がった俺に代わって、扉を開けてくれる鳴宮。

 とてっと一歩踏み出して振り返る、甘くて爽やかな香り。


「おかえりなさい、あなた」


 いつも聞く、しかしまだ慣れない言葉に視界が揺れた。いい加減これくらいで照れないでくれ、俺の心臓。


「ただいま、鳴宮」


「あれ、まだひなって呼んでくれないの?誰も見てないじゃん」


 鳴宮は焼きそばの入った袋を嬉しそうに携えて、悪戯っぽく笑う。


「いつまでも無理だな」


「え〜〜!婚約指輪を渡してくれる時には名前で呼んでよね」


 そんな日がいつか訪れるんだろうか。


「まずは焼きそば、だろ?」


 苦し紛れの一手はしかし、彼女のお腹から聞こえてきたかわいい音に肯定される。


 口を手に当てて頬を赤らめる鳴宮。

 白い肌に差した朱の色が、まるで夏の夕方みたいだ。


「そ、そうね……そういうことにしておきましょうか」


 手で顔を扇ぎながら、彼女はリビングへと足を向けた。


◆ ◇ ◆ ◇


 カラカラカラ。

 網戸を横に引いてベランダへ。


 薄紫色の空に虫の声が溶けていく。

 漂う濃いソースの匂い、普段なら不快に感じる湿気が、この部屋に小さな祭を連れてきてくれたみたいだ。


 鳴宮は既にベランダに折りたたみ椅子を出して座っている。

 あまりにも完成された、まるで美術館に飾られた絵画のような光景に息を呑む。


「ほら、あなたの分」


 差し出された指が鈍く銀色に光る。目を奪われたのは缶ビールではなく薬指。


 こんな簡単なことで胸の内がじわっと満たされるのだから、人間は単純なものだ。

 結婚相手が他のみんなも羨むような、美人で頭もスタイルも愛想も良い鳴宮だから?


 いや、違う。そんな陳腐な理由じゃない。

 弱さも強さも、良いところも悪いところも知られている彼女だから。


「さんきゅー」


「ほら、ここ来て!」


 鳴宮はペシペシと隣の椅子を叩く。


「はいはい」


「はいは一回!」


「お前は俺のオカンか」


「残念ながらお嫁さんね。お義母さまとも仲良くしたいけれども」


 発音は同じはずなのにニュアンスでわかる。

 こいつ今「お母さま」じゃなくて「お義母さま」つったろ。

 いや、まぁ書類上は正しいんだけれども。


「あー、そういや二人で顔見せろって連絡来てたっけ」


「いつでもいいわよ」


「まだ行くって行ってないだろ」


「私が行くって言ったらどうせ行くことになるんだから!」


 そりゃそうなんだが……腹落ちしないな。

 というか今はなにより焼きそばだ。


 二人で分けるためには、あ、お皿とってくるの忘れたな。


「いいわよ別に。今更同じパックから焼きそば食べるくらいで何も思わないでしょう?」


「なんで何も言ってないのに俺の思考と会話が成立してんだよ」


「愛する旦那様の考えなんて手に取るようにわかるの」


「鳴宮の場合、愛する旦那様であろうとなかろうとわかるだろ」


 若かりし頃、どうやったら相手の意図を察することができるのか聞いたことがあったっけ。

 今より少し幼い顔の彼女は「沢山ある未来の中から一番可能性の高い選択肢を掴んだだけ」とか言ってたが、それができたら苦労しないのよ。


「あなたの考えてることさえわかれば、それでいいの」


 そう言ってふわっと笑った鳴宮は、香しい麺に箸を突っ込んだ。


 パックに山盛り入った焼きそばは中々減らない。

 こんなところで歳を感じたくなかった……。食べ盛りの高校生だったら、こんなのぺろっといくんだろうな。


「食べるスピード落ちてきた?藍野くん」


 ほら言わんこっちゃない。バレてる。


「……長い月日には抗えないと知ったよ」


「かっこよく言ってるけど、歳で胃が縮んだだけじゃない」


「うるさいやい」


 いつの間にか陽は落ちて、辺りが紺色に染まる。


「ほら食べさせてあげましょうか〜?」


 器用に箸で焼きそばを一掴み、身体をこちらに寄せる。

 ほんの少しの静寂。どこかで風鈴の音が聞こえた気がした。


 諦めて口を開けたところで、沈黙は夜空に咲く大輪の花によって破られた。

 しかしそんなことを微塵も気にせず鳴宮は箸を進める。まるで世界に俺たちしかいないみたいに。


 つけっぱなしの冷房の風が頬を撫でる。


「おいし」


 不思議な話だ。愛する(仮)奥様手ずから食べさせてもらえれば、自分で食べるより美味しい気がするのだ。

 これが愛情の力か、なんて馬鹿なことが頭をよぎったのも、きっと夏のせいだ。


「私が食べさせてあげたからね」


 妖艶に持ち上げられた口の端。

 やられてばかりの俺は、今回も負けて顔を逸らす。


 本来ならば見惚れる花火でさえ、今は箸休めにしかならない。


「だーめ、ちゃんと目合わせてよ」


 ひんやりとした両手が俺の頬を挟んで、優しく彼女の顔へと視線が移される。


「……ずるいだろ」


 頬に熱が上っていくのを止められない。

 心が身体を追い抜いた。まるでドーンと弾ける音に先んじて咲き誇る光の花みたいに。


「ふへっ、その顔が見れたら満足よ」


 彼女の瞳を通して見る夏の夜空は、きっと一人で見る花火より価値がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ