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第15話

「見て見て〜〜!こっちに移る時に持ってきてたのよね」


 時刻は15時、クーラーなしでは茹で上がってしまう時間。

 廊下から現れた鳴宮が身にまとっていたのは浴衣。落ち着いた色合いの中にひっそりと描かれた向日葵が映える。


「おぉ……」


 感嘆の声が漏れた。


「どうよ藍野くん!」


 社内で人気の鳴宮が自分に見せるためだけに浴衣を着ている。その事実が逆に非現実感を加速させる。

 まるで異世界に迷い込んでしまったかのような、登場人物だけ現実と同じゲームの世界に入ってしまったかのような。


 着飾った戦友を「似合ってる」とか「いいじゃん」とかありふれた言葉で表してしまうのももったいなくて。


「……綺麗だな」


 景色や絵画にしか遣ったことのない言葉が空気中に溶けた。

 彼女の後ろ髪に挿した簪が揺れる。


 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ時間が止まったような感覚。外で鳴く蝉の声もどこか遠くに行ってしまった。


 刹那、浴衣に描かれた向日葵なんて霞むほどの花が咲いた。

 思わず口から飛び出した言葉は、もう無かったことにはできなくて。


「ごめ、今のなしで……」


「なしにできると思う?」


 揺れた袖でそよぐ風を感じたのは、きっと頬が熱を持っていたから。

 

◆ ◇ ◆ ◇


「おっまつりおっまつり〜!」


 景色が歪んで見えるほどの気温。

 暑さに拍車をかけるのは左側で組まれた腕、甘すぎない香りが鼻腔を撫でる。


「この気温でテンション上げられるの、お前くらいだぞ……」


「藍野くんはこんなに綺麗な奥さんと一緒に歩いてるのに気分乗らない?」


 こいつ、的確に俺の傷口を抉ってきやがる。


「はいはい綺麗綺麗」


「む〜!さっきのやってよ『……綺麗だな』ってやつ!」


 鳴宮は目を細めて俺の真似をする。


「やめろって似てないモノマネ」


「あなたってわかった時点で似てるのよこれは」


 哲学的な難しい話か?やめようぜ、ただでさえ脳が暑さに茹だってるんだから。


「あ!もう屋台見えるわよ!行こ行こ!」


 腕をぐいっと引き込まれて前へつんのめる。

 和装になって少しはお淑やかになったかと思ったのにこの自由さ。痺れるな。


 企画課で一緒に仕事をしていた時もそうだった。


 鳴宮は周りを巻き込んで前へ進む力が強い。よく言えば楽しげな未来を見せてくれる。悪く言えば傍若無人だが。


 彼女に着いていった結果が地獄だったとしても、それはいつも楽しい地獄なのだ。

 だから俺たちは……いや、俺はその誘いに乗らざるを得ない。


「何食べるよ。焼きそばか?法外な値段の冷やしきゅうりか?ベビーカステラか?」


 見えるカラフルな屋台から漂う香りが、ここが祭りだと主張している。


「あなたって時々とってもノリがいいわよね……さっきまでのやる気ない感じはどこ行ったの」


「失礼な。俺はいつだってやる気あるだろ」


 やはり食欲は何にも勝る原動力となる。

 腹が減っては戦はできぬし、残業も耐えられないし、美人な同期と腕を絡める恥ずかしさに負けてしまうのだ。


 一歩前へ踏み出して、彼女の腕を引き寄せる。


「昔からあなたのスイッチがわからないのよ」

 

 簡単だろ。面白いか面白くないか、それだけだ。

 人によると言われてしまえばそれまでだが。


「まぁいいわ。私はとりあえず全部食べたい!」


 思わず彼女へ振り向いてしまう。

 この細い腰の一体どこにそんな大量のごはんが入るんだ。


「えっち」


「まだ何も言ってないだろ」


「まだって言ってる時点でアウトでしょ」


 くそ……その通り過ぎて何も言えない。


「まぁあなたはそこらのゴミじゃなくて旦那様だし?私のことを好きにする権利を持ってるし?帰ったらその……」


 しりすぼみにごにょごにょと何か言ってるが、無視だ無視。

 俺にはアツアツの焼きそばを買うという使命がある。


「すんませ〜ん!焼きそば一つお願いします!」


 タオルを頭に巻いて銀色のヘラを器用に振り回すおっちゃんに声をかける。 

 「はいよっ!」と気前のいい返事に思わず頬が緩む。これこれ、外はまだまだ明るいけど、夏って感じだ。


 ただでさえ高い気温の中で鉄板がジュウッと音を立てた。


「お箸は二つでいいかい?」


 言われて気がつく。腕組んだままじゃねぇか!

 こんなアラサー二人が人様の前で……恥ずかしい。


 衝動的に腕を引き抜こうとすると、鳴宮がぎゅっと身体を寄せる。

 反応早すぎだろ、昔スポーツでもやってたか?


「えぇ、二膳でお願いします」


 艶やかな声が通り抜ける。

 焼きそばを受け取った彼女は、こちらを見てにっこりと笑った。


 笑顔のはずなのに怖い。


「離れようとするなんていい度胸じゃない」


「いやいや、冷静に考えてみろって。俺たちもうアラサ……」


「あのね藍野くん、冷静な人間はノリと勢いで結婚なんてしないものよ、あ、それと」


 人混みの中をゆっくりと進んでいく。さながら海を漂うクラゲみたいに。


「さっきえっちな目で見た罰ね、帰るまでずっとこのままだから!」


 してやったりとばかりにドヤ顔の彼女に返す言葉を、今の俺は持ち合わせていなかった。

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