第11話
「ついにね」
時刻は朝7時、まだ家を出るには早すぎる。
目の前には小さな箱に鎮座する二つのリング。そう、結婚指輪だ。
始まってしまうのか、終わりの始まりが。
「なぁこれ出勤前にしなきゃいけないのか?」
「今日から着けるんだから今が1番ベストなタイミングなの!」
鳴宮のこだわりは時折わからない。
適当かと思えば悩みに悩んで……それが美点だと言われればそれまでだが。
どこか自慢げな顔をして、彼女はこちらへ向き直る。
「私は誓うわよ。健やかなる時も病める時も、接待であなたが飲まされてる時も、横転しそうなプロジェクトで気張らないといけない時も、炎上した案件の火消しをする時も、あなたとずっと、ずっと一緒にいることを」
結婚式だと震える手でリングを恐る恐る指に嵌めるんだろうが、ここは我が家。
彼女の手は驚くほどしっかりしている。
それよりもツッコミたいことが山ほどあるんだが。
「待て待て待て、後半ずっと『病める時』じゃねぇか。しかも企画課でよく起こりがちなことばっか……もう許してくれよ。俺は経理の人間なんだ」
俺の抗議の声は聞き入れられない。
左手の薬指に指輪が寸分の違いもなく嵌められ、最後にぐっと押し込まれる。まるで何かを念押しするかのように。
「ん、これであなたは私のものね」
むふーっと満足気に息を吐くと、次はあなたの番よとばかりに鳴宮は形の良い手を差し出した。
男には覚悟を決めなければならない時がある。
それは苦手な自分を振り切る時であったり、仲間を救うために自分が犠牲になる瞬間であったり、トントン拍子に話が進んで引き返せなくなった結婚生活を確定する瞬間であったり。
「病める時も、健やかなる時も……期限間近の請求書を出してきた時も、予算の相談に来た時も、人が足りないからと元企画課の人間を引っ張り出した時も、鳴宮と一緒にいることを誓うよ」
「うぅ……絶妙に痛いところを突いてくるわね」
ほんの小さな意趣返しだ。
くねくね体を動かしている彼女の手に触れる。
ひんやりとした形の良い薬指に、シンプルなデザインの指輪が嵌まった。
「これでいいか」
「これがいいの」
そう言って彼女は微笑んだ。
◆ ◇ ◆ ◇
「藍野、お前結婚したのか」
お昼前、隣に座る先輩が口火を切った。さぁて攻防戦の始まりだ。
バレるの早すぎだろ、男の左手なんて誰も見てないと思ったが……。
「はい、実は」
「言えよ〜〜〜!!!おいみんな!こいつ結婚したらしいぞ!」
にわかにザワつく部屋、なんだなんだと集まってくる同僚たち。
「結婚式は?」
「誰と?」
「言えよ〜!」
みんな俺の肩をバシバシと叩いては机にお菓子を置いていく。
普段は黙々と仕事しているくせにこういう時はノリがいいんだから。
式はしません、とかかわいい奥さんとです、とか恥ずかしくて言えませんでした、とか適当にはぐらかすうちにも机に甘味の城が築かれていく。
しばらくして課長が手を鳴らした。
おっと騒ぎすぎたか?
「じゃあ今度藍野を囲む会やるぞ〜!経理チャットで日程調整投げるから頼んだ」
課長自ら幹事をやるらしい。いいんですか!?
というか鳴宮と結婚したなんてこの空気じゃ言えないな……多分一瞬で広まって、経理課が戦場に変わる。
俺の席周りに集まっていた同僚たちはうぇ〜いと言葉にならない声をあげて各々自分の机に戻っていった。
数分で元の静けさを取り戻す経理部屋。
このあっさり感が結構好きだったりする。企画課だったら、この話だけで盛り上がって午前が潰れるところだ。
『もうバレた?』
仕事の続きをとPCに向き合うと、単純な、そして極めてハイコンテクストな一文が画面を彩った。
確認しなくてもわかる、送り主は鳴宮だ。
『秒でな』
『やーっぱりね、私の情報網にもあなたが結婚したって流れてきてたから!』
なにがやっぱりなんだ。
数日どころか数週間はバレない自信があったんだが。
しかも情報網なんて持ってるのかあいつ……。会社で革命でもする気かよ。まだ早すぎる、まだな。
というかこの反応速度的に、経理課に情報を流している無礼者がいるな?
『逆に聞くがそっちは?』
『指輪がバレたどころか自慢した!!!』
思わず眉間に指が伸びる。
労働戦線で自由に、華やかに、まるで自分はこの戦場のジャンヌ・ダルクだと言わんばかりに暴れ回りやがって……。
『あれだけ俺は目立ちたくないって言ったのに』
『別に相手があなたとは言ってないからいいでしょ?』
『じゃあ逆に何話すんだよ……俺なんて机の上にお菓子の城が建てられてそれで終わりだぞ』
突如、プルル、プルルと目の前の電話が鳴る。
2回なら内線、俺はいつものようにノールックで受話器に手を伸ばした。
「はい、経理の藍野です」
「企画の鳴宮です!」
朝も聞いた戦友の声が少しくぐもって聞こえる。
本物の声の方がいいな、なんて思った俺はどこかで浮かれていたんだろうか。
「んー、答えはないしょ!」
それだけ嬉しそうに口にして、彼女は受話器を軽く置いた。




