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第三章 届かなかった手紙

 梢さんに会ってからの数日間、私たちは真弓さんの名前を口にしなかった。

 約束したわけではない。

 ただ、放送室に入るたび、緑色のケースが棚のいちばん上に置かれているのが見えて、その前を通り過ぎるだけになった。


 昼の放送だけは、閉校式典の準備中も続いていた。

 リクエスト曲はもう受け付けていない。その代わり、図書委員会からのお知らせや、落とし物の案内、閉校式典の連絡を流す。私はミキサーの前に座り、沙月先輩が原稿を読む。

 窓の外では、昼休みの生徒たちが校庭へ出ている。

 放送室の小さな窓を開けると、風の中に、誰かが名前を呼ぶ声や、バスケットボールの音が混じる。

「次、図書室からのお知らせです」

 私が合図すると、沙月先輩はマイクへ近づいた。

 声がスピーカーを通り、校舎のどこかへ流れていく。

 私は先輩の横顔を見た。

 言葉を読むときの先輩は、少しだけ姿勢が変わる。肩の力が抜け、声だけがまっすぐになる。人前で話すのが得意な人の顔ではなく、誰かに届くことを信じている人の顔だった。

 放送が終わると、先輩はマイクのスイッチを切った。

「お疲れ」

「お疲れさまです」

「今日、少し声が低かった?」

「先輩が?」

「うん」

「いつもより眠そうでした」

「正直」

「でも、いい声でした」

 先輩の目元が少しやわらいだ。

 笑ったけれど、すぐに棚の上へ視線を向けた。

 私も同じ方向を見た。

 緑色のケースは、何も言わずにそこにある。

「渚」

「はい」

「今、考えた?」

「何をですか」

「真弓さんのこと」

 私は否定しなかった。

「先輩もでしょう」

「うん」

「でも、探さないって言いました」

「言った」

「だから、話さないほうがいいです」

「どうして」

「話すと、探したくなるから」

 先輩はしばらく黙っていた。

 それから、机の端に置いてあった紙コップを手に取った。ぬるくなったお茶を一口飲んで、顔をしかめる。

「渚は、我慢するの得意だよね」

「そうですか」

「得意というより、我慢してることに気づくのが遅い」

 私は反論しようとして、やめた。

 先輩は時々、私が言わないことまで知っているような言い方をする。

「別に、我慢じゃないです」

「うん」

「梢さんが、探さないでって言ったから」

「うん」

「だから、それを守るだけです」

「うん」

 先輩は何度も頷いた。

 その『うん』が、私を少しだけ困らせた。分かってくれるのに、何も終わらせてくれない。

 放送室のドアが勢いよく開いた。

「渚、ここにいた」

 美里だった。手には紙袋を持っている。

「お弁当、屋上で食べるって言ってたのに」

「今日はだめ。鍵、閉まってるから」

「屋上、ほんとに一回も開けてくれないよね」

「危ないから」

「校舎なくなるのに、最後まで厳しい」

 美里は私たちを見て、少し首をかしげた。

「あれ、沙月先輩もいる。邪魔した?」

「してないよ」

 沙月先輩が答えた。

「渚、ちゃんとお昼食べて」

「食べます」

「食べてないの?」

 美里が呆れた顔をした。

「渚、放送室にいると忘れるんだよね」

「忘れてない。あとで食べようと思ってた」

「それを忘れてるって言うの」

 美里は紙袋から小さなパンを一つ出して、私の机に置いた。

「これ、あげる。購買の残り」

「いいの」

「明日になったら固くなるし」

「言い方」

「先輩もどうぞ」

「ありがとう」

 美里は、先輩にだけ少し丁寧に笑った。

 それから私へ、放課後にまたね、と手を振って出ていった。

 ドアが閉まったあと、沙月先輩がパンを見た。

「いい友達」

「うるさいですけど」

「渚のこと、よく見てる」

「先輩もです」

 言ってから、最後の言葉が余計だったと思った。

 沙月先輩は、パンの袋をゆっくり開けた。

「うん」

 小さく言った。

「見てるよ」

 私はパンの袋を持ったまま、何も言えなくなった。

 昼休みの終わりを知らせるチャイムが、校舎じゅうに鳴った。

 私たちは同時に立ち上がった。いつもなら一緒に廊下へ出るのに、その日は、どちらが先に出るか少しだけ迷った。


 閉校式典のための作業は、思ったよりたくさんあった。

 校歌の録音を探す。校内のチャイムを録る。卒業生から寄せられた短いメッセージを、読みやすい順番に並べる。放送部の最後の番組だからと、篠田先生はあれこれ案を出してきた。

「『桜森女子高の思い出』で、生徒にインタビューするのはどう?」

「誰が答えるんですか」

「渚さんとか」

「嫌です」

「即答」

 篠田先生は笑った。

 放送室のドアのところで、沙月先輩も笑っていた。手には、色紙で飾られた閉校式典の進行表を持っている。

「渚の声、いいのに」

「先輩が言うと、余計に嫌です」

「どうして」

「たぶん、先輩のほうがずっといいから」

 言ってから、しまったと思った。

 けれど篠田先生は気にした様子もなく、棚の上のCDケースを探している。

 沙月先輩は、ほんの少しだけ目を丸くした。

「ありがとう」

 それだけ言って、机の上に進行表を置いた。

 私は返事をしなかった。

 誰かの声を褒めるのは、たぶん、思っているより親密なことだ。

 放課後、私たちは音楽室で校歌の録音をした。

 合唱部の後輩たちに頼んで、ピアノの前に半円で並んでもらう。窓の外はまだ明るい。雪は少しずつ解け、校庭の端には濡れた土が見えていた。

 私は録音機材を調整し、沙月先輩はマイクの位置を直していた。

「もう少し前にお願いします。声が重ならないように」

 先輩の指示は静かで、でも迷いがない。

 後輩たちは素直に動いた。私にはできない言い方だと思う。私が同じことを言えば、きっともっと小さな声になる。

 録音が始まる。

 校歌は、入学式と卒業式でしか歌わない。歌詞も、正直なところ全部は覚えていない。でも、その日は誰も間違えなかった。

 ひとつの旋律が、古い音楽室を満たした。

 私はヘッドホン越しに、息を吸う音まで聞いていた。歌い出す前、全員が一度だけ同じタイミングで息を吸う。その音が好きだった。これから何かが始まる、と分かる音だから。

 歌い終わると、後輩の一人が泣き出した。

「ごめんなさい。なんか、急に」

「謝らなくていいよ」

 沙月先輩が言った。

「泣くほどちゃんと歌ってくれたんだから」

 先輩は、その子の背中を軽く撫でた。

 私は録音機の波形を見つめたまま、胸の奥が痛くなるのを待った。

 先輩は卒業する。

 学校がなくなることと、沙月先輩がいなくなることは、同じではない。でも、私の中では、同じ箱に入っていた。

 終わるもの。

 手を伸ばしても、春になれば別の場所へ行ってしまうもの。

 録音の確認を終え、後輩たちが帰ったあと、沙月先輩は音楽室のピアノに触れた。

 鍵盤の蓋は閉じたまま。指先で黒い木目をなぞるだけだった。

 譜面台の脇に置かれた先輩の鞄から、大学案内らしい白い封筒が少しだけのぞいていた。

 先輩は私の視線に気づくと、何でもない顔でそれを原稿の下に滑らせた。

「沙月先輩」

「うん」

「進学先、決まったんですよね」

 先輩の手が止まった。

 聞くなら今だと思った。聞かないままにしていたら、きっと私は、ずっと知らないふりをする。

「決まった」

「どこですか」

「東京」

 それだけだった。

 東京。

 地図で見れば、ここから線を何本も乗り継いだ先にある。テレビで見る街。学校より大きな建物が、当たり前のように並んでいるところ。

「大学ですか」

「うん。音響を勉強したいから」

「先輩らしい」

「そうかな」

「放送の仕事、するんですか」

「まだ分からない。でも、音があるところにはいたい」

 先輩は笑顔を作った。

 うれしそうなのに、どこか遠い顔だった。

「おめでとうございます」

 私は言った。

「ありがとう」

 それで会話は終わった。

 終わらせたのは私だった。もっと聞けたかもしれない。いつ引っ越すのか。寮なのか。春休みにはもういないのか。

 でも、聞けば聞くほど、先輩が遠くなる気がした。


 音楽室を出ると、外は雨になっていた。

 昼には雪だったものが、夕方には細い雨へ変わっている。昇降口の屋根を叩く音が、校舎の中まで聞こえた。

 私は傘を持っていなかった。

 沙月先輩は紺色の折りたたみ傘を開き、何も言わずに私のほうへ少し傾けた。

「入る?」

「先輩、濡れます」

「渚が入らなかったら、どっちにしても濡れる」

 私たちは一本の傘に入って、坂を下りた。

 傘は二人には少し小さい。歩幅を合わせないと、肩がぶつかる。

 先輩の髪から、いつも使っているシャンプーの匂いがした。

「東京も、雨は降りますよね」

 私が言うと、先輩の目尻がやわらいだ。

「降るよ」

「当たり前ですけど」

「渚、東京を何だと思ってるの」

「ずっと晴れてる町かと思ってました」

「それは少し怖い」

 私も笑った。

 先輩は何かを言いかけて、傘の柄を握り直した。

 それから、雨の向こうを見た。

「東京で雨が降ったら、今日のことを思い出すかも」

「傘、狭いですし」

「うん。渚が何も言わなくなったことも」

 私は、少しだけ息を止めた。

 先輩は責めるようには言わなかった。ただ、気づいていると伝えるみたいに。

「何か言えば、先輩が困ると思って」

「困るかどうか、私に決めさせて」

 雨音の中で、その声だけがはっきり聞こえた。

 私は頷いた。

 東京で雨が降るたびに、先輩が私を思い出してくれたらいいと思った。

 その願いに名前をつけるなら、たぶん恋だった。

 でも、そのときはまだ、その名前を口にする勇気がなかった。

 傘の端から落ちる雨を見ているしかなかった。


 次の日、私たちは閉校資料として残すテープを、一本ずつ確認していた。

 デジタル化の前に、ケースの状態とラベルを台帳へ書き写す。緑色のテープは誰にも聞かせないまま保存することになったから、台紙の傷みまで確かめておきたかった。

 ケースの背に貼られたラベルは、昨日より少しだけ剥がれている。

 私は剥がれた端を補修用のテープで留め直そうとして、台紙をそっと押さえた。

 そのとき、ケースの裏側が妙に厚いことに気づいた。

 透明なプラスチックの下にある紙の台紙が、何重にもなっているように見える。爪でそっと持ち上げると、紙は簡単に浮いた。

「先輩」

「うん」

「これ」

 台紙の裏に、細く折りたたまれた便箋が挟まっていた。

 古くなった糊が剥がれ、紙の端だけが見えていたらしい。昨日は気づかなかった。

 私は息を止めた。

 便箋は二つ折り、さらに三つ折りにされている。表には何も書かれていない。

 沙月先輩が椅子を寄せた。

「開けていいかな」

「分からないです」

 声が震えた。

 これが梢さん宛てなら、私たちが開けていいものではない。けれど、梢さんに渡すには、中身を確かめなければならない。

 少し考えてから、沙月先輩はケースごと便箋を机に置いた。

「梢さんに見てもらおう」

「先輩」

「勝手に聞いたの、もう一回やるのはだめ」

 私は頷いた。

 放課後、私たちは図書館へ向かった。

 梢さんは昨日と同じ資料室にいた。古い町史の背表紙を、乾いた布で一冊ずつ拭いている。

 私たちが入ると、梢さんは少し驚いた顔をした。それから、昨日よりも先に困った顔になった。

「ごめんなさい」

 私は言った。

「真弓さんを探したわけじゃないです。でも、テープのケースの中にこれがありました」

 便箋を両手で差し出す。

 梢さんは、すぐには受け取らなかった。

 白い紙を見つめている。そこに何が書かれているか、たぶん、もう分かっているようだった。

「あなたたちは、読んでいないのね」

「はい」

「なら」

 梢さんは便箋を受け取った。

 震える手ではなかった。けれど、紙を開くまでに、とても時間がかかった。

 私は目を伏せた。

 紙が擦れる小さな音だけが聞こえる。

 長い沈黙のあと、梢さんが息を吐いた。

「読んでもいいですか」

「もちろんです」

「いえ、あなたたちも」

 私は顔を上げた。

 梢さんは、便箋を胸の前で持ったまま、弱く笑っていた。

「あなたたちが見つけてくれたものだから」

 沙月先輩と目が合う。

 先輩はゆっくり頷いた。

 梢さんの声で、手紙が読まれた。

『梢へ。

 明日、屋上へ行けなくなりました。父の仕事のことで、今日の夜に町を出ます。急に決まったことです。私は、梢にちゃんと話せなかった。

 待ってると言ったのに、ごめんなさい。

 来られないことより、梢に嫌われることが怖くて、言えなかった。

 私は梢が好きです。友達だからじゃなくて、梢といるときだけ、自分の声を好きになれたからです。

 このテープを見つけたら、どうか、私が待つつもりだったことだけは信じてください。

 真弓』

 最後の名前を読んだとき、梢さんの声は少しだけ掠れた。

 私は、膝の上で手を握った。

 沙月先輩も何も言わなかった。

 図書館の外を通る車の音が、遠く聞こえた。

「……本当に、急だったんだ」

 梢さんは、手紙を見たまま言った。

「私は、あの日、ずっと怒っていたんです。私だけが大げさだったんだって。あの子は、卒業したかっただけで、私は勝手に意味をつけたんだって」

「そんなこと、ありません」

 言葉が勝手に出た。

 梢さんが私を見る。

「真弓さん、好きだったって書いてます」

「ええ」

「だった、じゃなくて。好きですって」

 今のことではない。昔の手紙だから、そういう書き方になる。

 それでも私は、過去形にしてしまうのが嫌だった。

 梢さんは少しだけ目を細めた。

「あなた、渚さんだったわね」

「はい」

「まっすぐね」

「そんなことないです」

「あるわ」

 梢さんは、手紙を丁寧に折り直した。

 便箋の折り目は何十年も開かれなかったのに、紙はまだ破れていない。

「真弓が、どこにいるかは知りません」

 私は顔を伏せた。

「でも、同じクラスだった人なら、一人だけ連絡先を知っているかもしれない。年賀状が来たことがあるから」

 沙月先輩が、驚いたように顔を上げた。

「探しても、いいんですか」

 梢さんは、すぐに答えなかった。

「私のために探す必要はありません」

 そう言ってから、手紙を見た。

「ただ、返事を一度だけ書いてもいいのかもしれないと思いました」

 胸の奥に、ほっとしたような、怖いような気持ちが広がった。

 昔の二人にとっても、今さら届く言葉がある。

 それは救いになるかもしれないし、何も変えないかもしれない。

 けれど、何もなかったことにはならない。


「真弓はね」

 梢さんが、ふいに言った。

「放送部に入る前は、ほとんど話したことがなかったんです」

 私たちは黙って聞いた。

「一年生の春、雨の日に、放送室の前で泣いていたの。自分で出した放送原稿を、先輩に直されて。自分の声が変だって言われた気がしたんでしょうね」

「真弓さんが」

「ええ。今のあなたたちには想像がつかないでしょうけど、あの子、すごく怖がりだった」

 梢さんは、手紙の端を親指でなぞった。

「私はたまたま、傘を忘れて放送室に戻ってきただけでした。真弓は泣いているのを隠そうとして、怒って。『見ないで』って言った」

 梢さんは少し笑った。

「私は、じゃあ、聞くだけにするって言ったの」

「聞くだけ」

「うん。声を出さないで、隣に座っていた。そしたら、真弓が、原稿を読んでみるって言った」

 資料室の窓の外で、枝が風に揺れた。

「それから、何度も一緒に放送室に行った。真弓は読むのが上手だった。私は原稿を書くのが好きで。二人でいると、放送が少しだけ違うものに思えた」

「好きだって、言い合ったんですか」

 私が聞くと、梢さんは首を横に振った。

「言っていません。言葉にしなくても、分かっているつもりでした」

 その言い方は、自分を責めているようには聞こえなかった。

 昔の自分を、遠くから見ている声だった。

「でも、分かっているつもりと、伝えたことは違うのね」

 私は沙月先輩を見た。

 先輩も、こちらを見ていた。

 すぐに目を逸らしたけれど、その一瞬だけ、胸の奥が熱くなった。

「だから、返事を書きたいんです」

 梢さんは言った。

「今度は、分かっているつもりで終わらせないように」


 梢さんは資料室の引き出しから、小さな住所録を出した。

「少し待っていて」

 手帳のページをめくる指が、今度は本当に震えていた。

 私たちは何も言わずに待った。

 やがて、梢さんは一つの住所を書き写した紙を差し出した。

「真弓の今の連絡先を知っているかもしれない人の住所です。直接、真弓のところへ行くのは違うでしょう。まずは、この人に連絡を取って」

「ありがとうございます」

 沙月先輩が頭を下げた。

 私も続いた。

 図書館を出たあと、先輩はしばらく紙を見つめていた。

「よかった」

「はい」

「ほんとに、よかった」

 先輩の声は、泣く直前のように聞こえた。

 私は、何と言えばいいのか分からなかった。

 だから、先輩の鞄から落ちかけていた書類を拾った。

 白い封筒。大学名が印刷されている。『入学手続書類在中』。

 先輩は慌てて受け取った。

「もう、手続きするんですね」

「うん」

「おめでとうございます」

 昨日と同じ言葉を、今度は少しだけちゃんとした声で言った。

 沙月先輩は封筒を鞄にしまった。

「渚、怒ってる?」

「怒ってません」

「じゃあ、寂しい?」

 私は立ち止まった。

 図書館の前の坂道には、まだ雪が残っている。踏まれたところだけ灰色になり、端のほうには白いままの雪があった。

 寂しい、と言えばいいだけだった。

 先輩が卒業するから。学校がなくなるから。

 それ以上の意味にはしないで済む。

「分かりません」

 結局、私はそう言った。

 先輩は少し待った。

「そっか」

 それ以上、聞かなかった。

 そのやさしさが、少しだけ苦しかった。

 夜、私たちは放送室の固定電話から、住所を教えてくれた梢さんの同級生へ電話をかけた。

 沙月先輩が先に話した。学校名と、閉校式典の資料を探していること。梢さんから連絡を取るよう頼まれたこと。真弓さんに、昔の手紙が見つかったと伝えたいこと。

 受話器の向こうの女性は、驚いて何度も聞き返した。

 真弓さんは、今は別の姓になっていること。遠い県で、夫を亡くしてから一人暮らしをしていること。連絡先を直接教えることはできないけれど、話は伝えてくれること。

 電話を切ると、放送室はひどく静かになった。


「真弓さん、結婚してたんですね」

 私が言うと、沙月先輩は少しだけ頷いた。

「うん」

「梢さんのことを好きだったのに」

 言ってから、失礼なことを言ったと思った。

 人が誰を好きだったとしても、その後にどんな人生を選ぶかは、その人にしか分からない。

 先輩は怒らなかった。

「好きだったことと、結婚したことは、同じ線の上にないんじゃないかな」

「でも」

「真弓さんには、真弓さんの生活があった。梢さんにも。二人が会えなかったことがなかったことになるわけじゃないし、会えなかったから、その後の全部が間違いだったとも言えない」

 私は、机の上に置かれた緑色のケースを見た。

 短いテープの中には、二人が若かったころの声しか残っていない。

 そのあとにあった長い時間は、私たちには見えない。

「昔の恋って、終わったものだと思ってました」

「終わると思う?」

「分かりません」

「私も」

 先輩は椅子に腰を下ろした。

「でも、好きだったことを、あとから恥ずかしいと思わなくていいなら、少し救われる」

 私は、その言葉を聞きながら、先輩の横顔を見た。

 先輩は東京へ行く。私はここに残る。

 もし何も言わないままなら、今の気持ちも、いつか『昔のこと』になるのだろうか。

 それを恥ずかしいと思わずにいられるだろうか。

 考えたくなかった。


「これでいいんですかね」

 私は言った。

「分からない」

 沙月先輩は、受話器を元の位置へ戻した。

「でも、梢さんが返事を書きたいって思えたなら、たぶん」

「真弓さんが会いたくないかもしれない」

「うん」

「会いたいかもしれない」

「うん」

 どちらも、同じくらい怖かった。

 沙月先輩は机の上の原稿を片づけ、窓のほうへ行った。

「私はね」

 背中を向けたまま、先輩が言う。

「言わなかったことを、あとから大事にしすぎるのは、少し苦手」

 私は椅子に座ったまま、その背中を見た。

「どうしてですか」

「言えなかったなら、言えなかったなりに、そのときの自分にも事情があると思うから。ずっと責めるのは、かわいそう」

「でも、梢さんは」

「うん。あの人は、何十年も自分を責めてたのかもしれない」

 先輩は振り返った。

「だから、手紙が届いてよかった」

 私は頷いた。

 それなのに、胸の中では別の言葉が残った。

 言えなかったなりに、事情がある。

 沙月先輩が東京へ行くことも、私が寂しいと言えないことも。

 それを事情と呼べば、きっと、きれいに黙っていられる。

 私は、窓の外の暗さを見た。


 家に帰ると、台所には煮物の匂いがして、テレビでは知らない人が天気予報を話していた。

 母は「遅かったね」とだけ言い、私は「放送部」と答えた。それ以上は聞かれなかった。

 食べ終えたあと、私は自分の部屋で机の引き出しを開けた。

 いちばん奥に、薄い水色の封筒がある。

 中学一年の冬に転校していった千紗へ書いた手紙。住所は、当時の担任から聞いた。けれど、書いてから何度も読み返して、出せないままにした。

 元気ですか。

 こっちは雪が降りました。

 新しい学校はどうですか。

 そんなことしか書いていないのに、急に知らない人みたいで、怖くなった。

 千紗がもう私を覚えていなかったらどうしようと思った。

 返事が来なかったら、あのころだけが本当だったと認めるみたいで、嫌だった。

 私は封筒を開け、便箋を広げた。

 自分の文字は、今より丸くて、少しだけ幼い。

 最後には、『また話したいです』と書いてある。

 それを読んで、胸が痛くなった。

 話したいなら、出せばよかった。

 でも、当時の私は出せなかった。

 梢さんの言った言葉を思い出す。分かっているつもりと、伝えたことは違う。

 私は、机の上に新しい便箋を出した。

 千紗の住所はもう変わっているかもしれない。今の私たちが会っても、何を話せばいいか分からないかもしれない。

 それでも、最初の一行だけ書いた。

『久しぶり。急にごめんね。』

 その先は、まだ続けられなかった。

 便箋を畳み、古い手紙の隣に置いた。

 すぐに送れなくても、書き始めることはできる。

 そのことだけが、少し救いだった。


 閉校まで、あと四十日だった。

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