第二章 屋上の名前
次の日の昼休み、私は弁当を食べ終えるより先に図書室へ行った。
図書室の奥には、卒業アルバムと学校要覧が並んでいる棚がある。普段は先生しか使わない場所で、扉には『閲覧希望者は司書へ』と紙が貼られていた。
私はその前で少し迷ってから、カウンターの内側にいる松井先生へ声をかけた。
「先生、昔の卒業アルバムを見たいんですけど」
「渚さんが?」
「放送部の資料探しです。閉校式典で使う音源があって」
「ああ。篠田先生から聞いてるわ」
松井先生はすぐに鍵を開けてくれた。
「でも、写真を勝手に外に出したりしないこと。あと、名前を調べるなら、必要なことだけにしてね」
「はい」
「古いものだから、誰かの今の暮らしに触れることもあるでしょう」
「分かってます」
自分で言ってから、少しだけ背筋が伸びた。
昨日のテープを聞いたとき、私たちはただ続きを知りたかった。けれど、そこにいた人たちにとっては、続きがあるだけではない。会えたのか、会えなかったのか。そのあと、どんな人生になったのか。私たちが勝手に開けていい箱ではないのかもしれない。
それでも、声のことを考えると、何もせずにいられなかった。
アルバムを机に運んでいると、入口のほうで床板が鳴った。
「早いね」
沙月先輩だった。
今日は髪をきっちり耳にかけている。手には、昨日の緑色のテープと、放送部の古い名簿を持っていた。
「先輩こそ」
「一時間目、空きだった」
「三年生っていいですね」
「受験が終わった人だけね」
その言い方が少しだけ軽くて、私は顔を上げた。
先輩は、私が見る前に名簿を机へ置いた。
「何ですか、それ」
「篠田先生に借りた。放送部の部員名簿」
「行動が早い」
「渚が来ると思ったから」
「どうして」
「昨日の顔」
「どんな顔でした」
「『探すなら、ちゃんと探します』って顔」
私は否定できなかった。
昭和五十三年のアルバムを開く。ページの端は何度もめくられたせいで柔らかく、写真の色は少しだけ茶色がかっていた。制服の形は今とほとんど変わらないのに、髪型も、笑い方も、私たちよりずっと大人びて見える。
「この辺かな」
沙月先輩が名簿をめくった。
「テープ、昨日の卒業式の前って言ってたから」
「昭和五十三年なら、ここです」
放送部のページを探す。
白黒写真の端に、マイクを持った二年生と、一年生らしい子たちが並んでいた。写真の下には小さな文字で、部員の名前が載っている。
榊梢。
水城真弓。
私は、指先でその二つをたどった。
「いた」
「いたね」
隣にいる沙月先輩の声も、少しだけ低くなった。
写真の中の梢は、前列の端にいた。髪を肩の上で切りそろえ、笑っているのに目だけは少し緊張している。真弓はその斜め後ろに立ち、カメラではなく、隣の梢を見ていた。
たまたまかもしれない。
でも、たまたまにしては、まっすぐだった。
「真弓さん、梢さんのこと見てますね」
「うん」
「先輩は、すぐそういうこと言う」
「言ってない。事実を言っただけ」
「事実かは分からないでしょう」
「渚はどう思う?」
私は写真から目を離せなかった。
目線だけで、何かを決めつけるのは違うと思う。けれど、誰かの横顔を見てしまう瞬間には、たしかに理由がある。
「……大事な人を見てる顔には、見えます」
言ったあとで、胸が少し速くなった。
その言葉を、先輩に向けたもののように聞かれていたらどうしようと、なぜか思った。
沙月先輩は何も言わなかった。ただ、写真から視線を外さずに、小さく頷いた。
名簿には住所も電話番号も載っていない。卒業後の進路欄には、梢が地元の短期大学、真弓が『転居のため未定』とだけ書かれていた。
「転居」
沙月先輩がつぶやいた。
「急に引っ越したんですかね」
「卒業式の直後に?」
「テープが三月ですから」
「うん」
私たちは次のページをめくった。
学校要覧。職員名簿。部誌。けれど、二人の名前は、それ以上どこにも出てこない。
昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴るころ、沙月先輩が部誌の最後のページを指さした。
「これ」
そこには、放送部員が一年を振り返る短い文章が並んでいた。
梢の文章は、三行だけだった。
『放送室にいると、外で起きていることが遠く聞こえます。けれど、隣の人の声だけは近くにあります。来年も、忘れずに聞けたらいいと思います。』
真弓の文章には、こうあった。
『声は残るから怖いです。でも、残るから言えることもあると思います。』
ページの余白には、何人かの生徒が書いたらしい小さな落書きが残っていた。
マイクの絵。音符。『放送室は冬でも暑い』という走り書き。そのすぐ下に、細い字で『屋上、鍵を借りること』と書かれている。
「鍵を借りてたんですね」
私が言うと、沙月先輩は身を寄せた。
「昔は入れたのかも」
「卒業式の日も」
「うん」
私は、その文字の筆圧を見た。誰の字かは分からない。けれど、梢さんか真弓さんが書いたのかもしれないと思うと、紙の端を触るのもためらわれた。
名簿の間から、一枚の古い当番表が落ちた。
昭和五十三年三月。放送部の番組予定と、機材の担当が鉛筆で書かれている。
三月七日、卒業式予行。
三月八日、卒業式。
三月九日、機材整理。
そして三月八日の端にだけ、真弓さんの名前の横へ小さく線が引かれていた。
欄外に、別の筆跡で『転居のため欠席』とある。
「本当に、急だったんですね」
私が言うと、沙月先輩は黙っていた。
「梢さん、これを知らなかったんでしょうか」
「当日の欠席理由まで、全部の生徒が見られるものじゃないと思う」
「でも、放送部なら」
「誰かが伝えると思ったのかもしれない」
誰かが。
その誰かが、いなかった。
私は当番表を見た。
たった一行の『転居のため欠席』が、二人の間に何十年も横たわっていた。
「これ、梢さんに見せますか」
「まだ、やめよう」
沙月先輩は言った。
「まずは、本人に会ってから。録音のことを話せるか、聞こう」
「はい」
「でも、記録は残しておこう。勝手に意味づけない形で」
私はノートに、日付と文言だけを書いた。
三月八日。転居のため欠席。
書きながら、声よりも短い文字が、時々もっと残酷だと思った。
私はしばらく文字を見ていた。
昨日のテープの声が、耳の奥で重なる。
忘れるから、録る。
残るから、言える。
「もし、梢さんに会えたら、どうするんですか」
私は聞いた。
「まず、録音のことを話す」
「聞かせていいか、確認するんですね」
「うん。真弓さんを探すかどうかも、そのあと」
先輩は、ほんの少し目を細めた。
「たぶん、聞くしかないと思う。もし聞かれたくないなら、そこでやめる」
「ちゃんとやめられますか」
「渚が止めてくれたら」
「責任が重いです」
「頼りにしてる」
昨日と同じ言葉だった。
私はアルバムを閉じ、昼休みの残り時間で、二人の名前をノートに書き写した。
榊梢。
水城真弓。
文字にすると、急に本当にいた人たちの名前になった。
放課後、私たちは町の図書館へ行く前に、職員室の隣にある書庫へ寄った。
篠田先生が、古い放送部の帳簿ならそちらにあるかもしれないと言ったからだ。
書庫は、普段ほとんど使われていない。鍵を開けると、冷えた空気と、古い紙の匂いが流れてきた。壁際の棚には、年度ごとの要覧や卒業証書の控えが、背表紙をこちらに向けて並んでいる。
「ここ、初めて入りました」
私が言うと、篠田先生は段ボールをまたぎながら笑った。
「先生になってからでも、必要なときしか入らないもの」
「閉校するから、全部見るんですか」
「見るものと、残すものと、捨てるものを分けるの」
先生は言った。
「一番難しいのは、何を残すかじゃなくて、誰が次に読むか分からないことね」
棚の前で、先輩が足を止めた。
「誰も読まないかもしれないものを残すんですか」
「読まないかもしれないから、残すのよ。今の私たちには意味がなくても、あとで誰かが必要にすることがある」
私は、緑色のテープのことを思った。
昨日まで、誰にも必要とされなかったもの。
それが今は、梢さんの何十年にも触れてしまっている。
篠田先生は、棚の下段から、黒い布張りの冊子を引き出した。
背には『放送部 昭和五十一年度~五十四年度』と金文字で書いてある。
「これかな」
机の上へ置くと、表紙の埃がふわりと舞った。
私たちは顔を寄せ、最初のページを開いた。
部費の出納。機材の修理記録。校内放送の当番表。どれも細かい字で、几帳面に書かれている。真弓さんと梢さんの名前は、何度も出てきた。
六月、昼の放送担当。真弓、榊。
七月、夏休み前特番の原稿。榊。
十月、文化祭音響。真弓、榊。
名前が並んでいるだけなのに、二人でずっと同じ場所にいたことが分かる。
「すごい」
沙月先輩が、小さく言った。
「毎回、一緒ですね」
「うん」
「偶然じゃないです」
私は言った。
先輩は、こちらを見た。
「うん」
その返事だけで、頬が熱くなる。
ページをめくると、三月の欄に、別の紙が挟まっていた。
薄いわら半紙。放送部の顧問が書いたらしい、短いメモだった。
『3/7 水城より録音機材の使用希望。卒業式後、私用録音のため。榊へは知らせないようにとのこと。放送室の鍵は顧問預かり。』
私はその文章を、一度で理解できなかった。
私用録音。
榊へは知らせないように。
「このテープ」
沙月先輩が、低い声で言った。
「二人で録ったのは、七日より前なのかも」
「真弓さん、一人で何か録るつもりだった」
「梢さんに渡すために」
私は、メモを見つめた。
彼女は、待つだけではなかった。何かを残そうとしていた。
でも、録音ができたのかは書かれていない。翌日の欄には、ただ『水城欠席 転居』とあるだけだった。
「先生」
私は篠田先生を呼んだ。
「このメモ、梢さんに見せていいでしょうか」
先生はすぐには答えなかった。
紙を手に取り、少しだけ眉を寄せる。
「まずは、本人に会って、録音のことを話せるか聞いてからにしましょう」
「はい」
「今は、まだ見せないほうがいいと思う」
「でも」
「渚さん。知っていることが増えるほど、相手のために何かしたくなる。でも、相手が望むまで待つのも、ちゃんとすることの一つよ」
私は唇を噛んだ。
昨日から、待つという言葉ばかり聞いている。
待つことは、何もしないことではない。けれど、何かを知っているのに黙っているのは、思ったより難しかった。
「この冊子は、コピーを取っておこう」
沙月先輩が言った。
「閉校資料として。梢さんが聞きたいと思ったとき、すぐ出せるように」
篠田先生は頷いた。
私は、先輩の横顔を見た。
昨日、真弓さんを探したいと思っていた先輩が、今は私より先に、待つことを選んでいる。
そのことが、少しだけうれしくて、少しだけ苦しかった。
コピーを取って書庫を出たころには、外はもう薄暗かった。
図書館の閉館時間まで、あと三十分しかない。
「急ぎましょう」
私が言うと、沙月先輩は口角を上げた。
「急ぎなら先に言って」
「先輩が言うんですか」
「今日は渚が言った」
私たちは、雪の残る坂を並んで下りた。
放課後、私たちは町の図書館へ行った。
学校から歩いて十五分ほどの、小さな建物だ。冬のあいだは閉館が早い。入口の自動ドアをくぐると、暖房の匂いと、濡れたコートの匂いが混ざっていた。
沙月先輩は受付の人へ、放送部の記念誌を作るために昔の卒業生を調べている、とだけ説明した。嘘ではない。でも、すべてでもなかった。
受付にいた白髪の女性は、二人の名前を聞いて、少しだけ驚いた顔をした。
「榊梢さんなら、ここにいますよ」
「え」
私と先輩の声が重なった。
「今は、郷土資料室の整理を手伝ってくださってるの。あちら」
女性が指さした先には、『郷土資料』と書かれた小さな札が見えた。
扉の向こうに、背の低い女性がいた。
灰色の髪を首のあたりでまとめ、棚から古い本を取り出している。ベージュのカーディガンの袖を肘までまくり、背表紙の文字を一冊ずつ確認していた。
私は、その横顔を見て、アルバムの中の梢とすぐには結びつけられなかった。
けれど、沙月先輩が小さく息をのんだ。
「写真と同じ、目ですね」
声に出さずに言ったらしい。私は頷いた。
私たちは扉の前で立ち止まった。
見つけてしまった。
思ったより、ずっと簡単に。
「声、かけます?」
私が聞くと、沙月先輩は少し迷った。
「うん。ここまで来たから」
扉を軽く叩く。
女性が顔を上げた。
「はい」
「あの、桜森女子高の放送部です」
沙月先輩が名乗った。
梢さんの表情は、最初は穏やかだった。けれど『榊梢さんですか』と聞いた瞬間、ほんの少しだけ動かなくなった。
「そうですけど」
「突然すみません。閉校式典の資料を整理していて、昔の録音を見つけたんです」
先輩は、持ってきた緑色のケースを見せた。
梢さんはそれを見た。
見ただけで、顔から色が引いた。
「どこに、ありましたか」
「学校の講堂の倉庫です」
「中身は」
先輩が、すぐには答えなかった。
私は、今なら止めるべきだと思った。松井先生の言葉を思い出す。誰かの今の暮らしに触れること。
「すみません」
私は先に言った。
「私たち、勝手に聞いてしまいました。卒業式のあと、屋上で会う約束をしている録音です」
梢さんは、目を閉じた。
資料室の時計が、かち、と鳴った。
「真弓の声でしたか」
その聞き方は、答えを知っている人のものだった。
「はい」
「……そう」
梢さんは、机の端に手を置いた。
細い指だった。手の甲には薄いしわがあるのに、爪はきれいに整っている。
「彼女は来なかったんです」
返す言葉が、すぐには見つからなかった。
「卒業式の日、私は屋上で待っていました。寒くて、風が強くて。式が終わって、みんなが写真を撮って、帰っていって。それでも、少しなら遅れることもあると思って」
梢さんの声は、驚くほど平らだった。
「暗くなるまで待ったけれど、来なかった」
「理由は、聞いていないんですか」
沙月先輩が、ゆっくり尋ねた。
梢さんは首を横に振った。
「何も。あの子は、次の日には町を出たそうです。手紙も、電話も、一度もありませんでした」
沈黙が落ちた。
私は、緑色のケースを握っている先輩の指を見た。強く持ちすぎて、指先が白くなっている。
「ごめんなさい」
沙月先輩は言った。
「こんなことを聞くつもりじゃ」
「いいえ」
梢さんの口元が、かすかにほどけた。
それでも、泣きそうな顔だった。
「もう、ずいぶん昔のことです。あなたたちの生まれる前」
「でも」
私は言いかけて、言葉を失った。
でも、昔のことだから消えるわけじゃない。
それを言っていいのか分からなかった。
梢さんは私たちからテープを受け取らなかった。
「その録音は、学校に置いておいてください。誰にも聞かせないで」
「はい」
「そして、もう探さないでほしいんです」
沙月先輩が顔を上げた。
「真弓さんを?」
「ええ」
梢さんは、窓の外を見た。
図書館の庭には、去年の落ち葉が雪の下に埋もれている。
「来なかった理由があったとしても、あの子が今、何を望んでいるのかは分かりません。私のために、あなたたちが探し出すことではないでしょう」
その通りだった。
私はすぐに頷いた。
「分かりました」
沙月先輩は、少し遅れてから頷いた。
「……分かりました」
図書館を出ると、もう空は暗かった。
夕方の雪が、また細かく降り始めている。街灯の下だけ、白い粒がゆっくり見えた。
先輩はしばらく何も言わなかった。
私は、歩く速度を合わせた。
「怒ってます?」
「誰に」
「私に」
「どうして」
「すぐに、分かったって言ったから」
沙月先輩は足を止めた。
図書館の前には、除雪用の塩が入った青い箱がある。雪がその蓋に薄く積もっていた。
「怒ってない」
「でも、先輩はまだ探したそうでした」
「そう見えた?」
「見えました」
「さすが、音を聞き分ける人」
「顔です」
先輩は、息だけで笑った。
それから、息を白くしながら言った。
「私は、真弓さんに理由があったなら、梢さんに教えてあげたいと思った。でも、梢さんが望んでないなら、それは私の気持ちだよ」
「はい」
「渚は正しい」
「正しいとかじゃ」
「いいの。今日は、渚のほうが落ち着いてた」
褒められたのに、うれしくなれなかった。
梢さんが言った、来なかった、という言葉が残っていた。テープの中で、真弓さんはたしかに待ってると言っていた。なのに、来なかった。
その間にあるものを、私たちは知らない。
知らないままにするのが、たぶん一番やさしい。
でも、声の続きを失くしてしまうみたいで、苦しかった。
「先輩」
「うん」
「屋上、今は入れないんですよね」
「うん。何年か前に鍵が替わった」
「行っても意味ないですけど」
「行きたい?」
私は少し考えた。
「見てみたいです」
「じゃあ、明日。守谷さんに頼んでみよう」
「鍵を壊すのはなしですよ」
「まだ言ってる」
先輩は、今度は肩を揺らした。
図書館を出たあと、私たちはすぐには学校へ戻らなかった。
駅前の小さなパン屋に、閉店前の割引札が出ていた。沙月先輩が『何か食べる?』と聞いたので、私はクリームパンを選んだ。先輩は塩味のスコーンを一つ買った。
店の外には二人用の細いベンチがあり、私たちは紙袋を膝に置いて座った。
夕方の駅前は、町の中でいちばん人が多い。それでも、電車が行ってしまうと急に静かになる。踏切の音が止んだあと、誰かの自転車のブレーキだけが聞こえた。
「さっき、私、言いすぎましたか」
私はクリームパンの袋を開けながら聞いた。
「何を」
「梢さんに。真弓さんは、好きだったって」
「言いすぎてない」
「でも、昔のことを、私が」
「渚は、梢さんが聞きたくなかったことを言ったんじゃないよ」
沙月先輩は、スコーンを小さく割った。
「梢さんが、ずっと自分で言えなかったことを、代わりに言っただけ」
「それは、勝手じゃないですか」
「勝手かもしれない」
先輩は笑わなかった。
「でも、黙ってるほうがいいとは限らない」
私は紙袋の端をつまんだ。
先輩は、いつも言葉を急がない。急がないのに、必要なときにはちゃんと口にする。だから、放送を聞く人たちは先輩の声を信じるのだと思う。
「先輩は、どうして放送部に入ったんですか」
急に聞きたくなった。
「一年生のとき、入学式の校内放送を聞いたから」
「それだけですか」
「それだけ」
「もっとすごい理由があるかと思いました」
「ないよ。入学したばかりで、友達もいなくて。教室がうるさくて、どこにいればいいか分からなかった」
私は先輩を見た。
沙月先輩が、友達のいない人だったとは思えなかった。
「放送室から流れてきた声が、すごく落ち着いて聞こえたの。誰かが、私の知らない話を、私にも分かるように言ってくれてるみたいで」
「それで入った」
「うん。見学に行ったら、当時の先輩が、機械の説明だけしてくれた。無理に仲良くしようとしなかった」
沙月先輩は、困ったように口元をゆるめた。
「だから、ここにいていいんだと思えた」
私は、まだ温かいクリームパンを一口食べた。
甘すぎて、喉の奥が少し痛い。
「私は、沙月先輩がいたから入ったんです」
言ったあとで、しまったと思った。
先輩がこちらを見た。
「私?」
「入学式の日、校内放送をしてたでしょう。『新入生のみなさん、おめでとうございます』って」
「してたかも」
「そのとき、すごく落ち着く声だと思って」
私は顔をそむけた。
「だから、見学に行きました」
少しの間、先輩は何も言わなかった。
店の中から、閉店を知らせる小さなベルが鳴った。
「じゃあ」
沙月先輩が、ゆっくり言う。
「私は、渚を放送部に勧誘したことになる」
「勝手に流れてただけです」
「でも来てくれた」
「来ました」
「うれしい」
その一言が、思ったより近くに落ちた。
私は返事をせず、残りのクリームパンを食べた。
先輩もスコーンを食べ終え、二人で紙袋を小さく畳んだ。
駅のホームに電車が入ってくる音がした。
「行きましょうか」
私が立ち上がると、沙月先輩は頷いた。
歩き出してからも、さっきの『うれしい』が、胸の中で何度も聞こえた。
その夜、私は自分の部屋で、昨日の録音を書き起こした。
古い声を、今の私の文字にする。
梢。
真弓。
明日、卒業式のあと、屋上に来られる?
待ってる。
そこで、ペンが止まった。
書き起こしの余白に、私は小さく、来なかった、と書いた。
そしてすぐ、その文字を線で消した。




