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第一章 切れたテープ

一月の終わり、担任の先生はホームルームの時間に、いつもよりゆっくり出席簿を閉じた。

「閉校式典まで、あと二か月を切りました」

 教室が少しだけ静かになった。

 みんな知っていることなのに、先生の口から日数として言われると、急に本当らしく聞こえる。

 今年の閉校式典は、三年生の卒業式も兼ねて行われる。卒業生にとっては、これがこの学校で迎える最後の式だった。

「来月からは、私物の持ち帰りを少しずつ始めてください。卒業生だけでなく、二年生の皆さんも、三月末でこの校舎を使うのは最後です」

 誰かが小さくため息をついた。

 窓際の美里が、机の中をのぞき込んだ。

「教科書、全部持って帰らなきゃだめかな」

「持って帰らなくていいものなんて、あるの?」

 私が聞くと、美里はしばらく考えた。

「プリントとか。昔のテストとか。あと、机の落書き」

「机に落書きしたの」

「してない。前の人がしてた。薄くハートが彫ってあるやつ」

「それは持って帰れないね」

「でしょ。置いていかれるもの、けっこうあるよ」

 美里は、少しだけ笑った。

 私も笑った。

 でも、その言葉は昼休みになってからも頭に残った。置いていかれるもの。机の傷。体育館の床についた靴跡。誰も見なくなる掲示物。放送室にしまわれた、名前の分からないテープ。

 それらは、校舎がなくなれば、どこへ行くのだろうと思った。

 私は放送部に入ったとき、音は残せるものだと知った。録音機の中で、声は数字や磁気になり、再生ボタンを押せば、何日後でも、何年後でも戻ってくる。

 でも、残ったものを聞く人がいなければ、それは残ったことになるのだろうか。

 先生が連絡事項を終えると、窓の外で風が鳴った。

 校庭の旗が、弱い音を立てて揺れている。


 校内放送は、春まで必要な連絡だけになっていた。

 朝と昼と放課後のチャイムは鳴る。けれど、昼休みのリクエスト曲も、掃除時間に流れていた明るい音楽も、先週で終わった。放送部の引き継ぎも、もう必要ないのだと先生は言った。

 学校がなくなるのだから、当たり前だった。

 窓の外では、夕方の雪が校庭の端を薄く白くしていた。グラウンドのフェンスは低く、向こうの山はすぐ近い。冬になると、山の裾から日が落ちるのが早い。四時を過ぎるころには、廊下の窓に映る自分の顔のほうが、外の景色よりはっきり見えた。

 私は教室の戸を閉め、鞄を肩に掛けた。

「渚」

 背中のほうから呼ばれて、振り返る。

 廊下の突き当たりに、沙月先輩がいた。制服の上に紺色のカーディガンを羽織り、腕には古い延長コードを抱えている。髪は肩より少し短い。いつもは耳にかけている前髪が、今日は雪気のせいか、頬に落ちていた。

「放送室、来られる?」

「今日ですか」

「今日。なるべく急ぎ」

「急ぎなら先に言ってくださいよ」

「言ったら、渚は逃げると思った」

「逃げません」

「じゃあ来て」

 先輩は笑って、私の返事を待たずに歩き出した。

 私は少しだけむっとした。でも、結局そのあとを追った。沙月先輩に頼まれると断れないのは、放送部に入ったばかりのころから変わらない。


 入部したばかりの私は、機材の名前もほとんど知らなかった。文化祭の前日、ケーブルを床に絡ませてしまい、どうしていいか分からなくなったときも、先輩は笑わなかった。

『これ、ほどけないですね』

 私が言うと、先輩は床にしゃがみ込んだ。

『ほどけるよ。絡まったものは、大体』

 それから二人で、端から少しずつ引き抜いた。指先が触れるたびに、私は気まずくなったけれど、先輩は何も気にしていないようだった。

 十分ほどして、黒いケーブルはまっすぐになった。

『ほら』

 先輩が言った。

『でも、最初から絡ませないのが一番だね』

『それはそうです』

『渚は、次からできる』

 どうしてそんなふうに言い切れるのか、当時の私は不思議だった。

 先輩は私のことを、まだほとんど知らなかったはずだ。それでも、できる、と言われたら、本当にできる気がした。

 それから、私は失敗するたび、先輩に見つからないようにするのではなく、どう直せばいいか聞くようになった。

 たぶん、それが放送部に残った理由の一つだった。


 放送室は、校舎のいちばん端にある。音楽室と資料室の間の、もともとは倉庫だったらしい細い部屋だ。窓が一つ。壁一面の吸音材。机の上にミキサーとマイクと、いつのものか分からない時計。

 閉校式典の準備で体育館が使われるようになってから、ここはずっと寒かった。

「ストーブ、つけます?」

「灯油、昨日で切れた」

「じゃあ、先輩が急ぎって言ったの、だいぶ非人道的です」

「ごめん。でも、たぶん渚が好きなやつ」

 そう言って、沙月先輩は机の下に置かれた段ボール箱を指さした。

 箱は三つあった。どれも黄ばんでいて、側面に太いマジックで『放送部 旧録音資料』と書かれている。ガムテープは一度はがされ、また適当に貼り直されたらしい。片方の角が潰れていた。

「これ、どこから」

「講堂の倉庫。篠田先生が見つけたんだって。閉校式典で流す音源を探してほしいって」

「だから急ぎ」

「うん。最後の校内放送を作るでしょ」

 私は箱を見た。

 最後の校内放送。

 その言い方を聞くたび、胸の奥のどこかが冷たくなる。

 四月から、この学校は隣町の県立高校と統合される。私たち二年生は新しい校舎へ通うことになるし、三年生は卒業する。桜森女子高等学校という名前は、卒業証書の上と、校門の石碑にだけ残る。

 放送室も、春になれば空っぽになる。

「何を流すんですか」

「昔の卒業生の声とか、校歌とか。あと、今いる生徒のメッセージ。ありがちなやつ」

「ありがちなやつでいいんですか」

「いいんじゃない。最後くらい」

 沙月先輩は、言いながら箱のふたを開けた。

 中にはカセットテープがぎっしり詰まっていた。透明なケースに入ったもの、紙のラベルだけ貼られたもの、ケースが割れて輪ゴムで留められているもの。どれにも日付と題名が書かれている。

『昭和五十五年 合唱祭』

『七月十日 昼の放送』

『卒業生への言葉』

 指先で一つずつ持ち上げると、古いプラスチックの匂いがした。埃と、乾いた紙と、少しだけ金属のような匂い。

「再生できる機械、まだありましたっけ」

「あるよ」

 沙月先輩は得意そうに、棚の下から黒いラジカセを引っ張り出した。取っ手の片側はテープで補強され、ボタンの文字は薄く消えている。

「これも残すのかな」

「どうでしょう。壊れてますし」

「動く」

「動いてるの見たことないです」

「さっきコンセント入れたら、ラジオは鳴った」

「それはラジオです」

「大丈夫」

 大丈夫、と先輩はよく言う。

 それが本当に大丈夫なときもあれば、まったく大丈夫ではないときもある。文化祭の生放送でマイクが一本死んだときも、先輩は同じ顔でそう言った。結果として私たちは、放送室からではなく体育館の舞台袖で、一本のマイクを交代で使うことになった。

 あれは大丈夫ではなかった。

 けれど、終わったあとに先輩が笑っていたから、私も笑えた。

「まずは、卒業式の近い日付からですね」

「うん。渚、聞き分けられる?」

「何をですか」

「使えそうな音」

「……それは、たぶん」

「頼りにしてる」

 そう言われると、胸の冷たいところが少しだけほどける。

 私は返事の代わりに、箱の中へ手を入れた。

 最初の一時間は、ほとんど何も見つからなかった。

 合唱祭の録音は、客席の咳払いと、誰かがプログラムをめくる音のほうが大きかった。夏の昼の放送は、曲の途中でテープが伸びていて、歌手の声が不自然に低くなった。卒業式の録音には、校長先生の長い祝辞と、泣いているらしい誰かの鼻をすする音だけが残っていた。

 私はノートに、日付と内容を短く書いていく。

 沙月先輩は隣で、使えそうな部分の秒数を計っていた。

「先輩」

「うん」

「これ、三十秒だけ使うくらいなら、無音のほうがきれいじゃないですか」

「言うね」

「ほんとのことです」

「でも、無音を流したら機械が壊れたと思われる」

「それはそう」

「ほら」

 先輩はボールペンのキャップを唇に当てて笑った。

 窓の外は、いつの間にか青く暗くなっていた。雪は止んでいる。ガラスの向こうにある校庭は、誰も歩いていないせいで、白い紙のようだった。

 私は二つ目の箱を開けた。

 いちばん下に、他より少し細いカセットがあった。

 薄い緑色のケース。ラベルには、鉛筆で小さく『三月 卒業前』とだけ書かれている。日付も、題名もない。

「これ、聞きます?」

「聞こう」

 ケースを開けると、テープの巻きが少し緩んでいた。私は指でそっと押さえ、ラジカセに入れる。

 再生ボタンを押した。

 ざ、と長い砂嵐のような音がした。

 次に聞こえたのは、椅子を引く音だった。

『マイク、近いかな』

 若い女の子の声だった。

 今より少しだけゆっくりした話し方。緊張を隠そうとしているのが分かる。

『近い。梢、息入ってる』

『真弓が近すぎるんだよ』

『じゃあ離れる』

『だめ』

 短い笑い声がした。

 私は、ノートに書こうとしていた手を止めた。

 沙月先輩も動かなかった。

『これ、ほんとに録るの?』

『録る。忘れるから』

『卒業したら?』

『卒業しても』

 少しの沈黙。

 遠くで、校内放送のチャイムのような音が鳴った。けれど、そのあとに何が流れたのかは、テープの状態が悪くて分からない。

『梢』

『なに』

『明日、卒業式のあと、屋上に来られる?』

『うん』

『待ってる』

『……うん。私も待ってる』

 その声は、ほんの少し震えていた。

 そして、ぶつり、と音が切れた。

 ラジカセの中で、テープだけが回っている。

 私は再生ボタンを止めた。

 部屋が急に広くなったみたいだった。さっきまで聞こえていたストーブのない寒さが、椅子の隙間や壁の吸音材から、ゆっくり戻ってくる。

「梢と、真弓」

 沙月先輩が言った。

「卒業生、ですかね」

「たぶん。声だけだと分からないけど」

「これ、使うんですか」

「ううん」

 先輩はすぐに首を振った。

「使わない。勝手に流したらだめ」

 その答えに、私は少し安心した。

 あの二人の声は、誰かに聞かせるために録ったものではない。たまたま残ってしまっただけだ。最後の放送の飾りにするには、あまりに小さくて、個人的だった。

「でも」

 沙月先輩は緑色のケースを手のひらに乗せた。

「続き、気にならない?」

 私は頷きかけて、やめた。

「気になります。でも、調べても分からないと思います」

「卒業アルバムならあるかも」

「名前だけじゃ」

「放送部なら、部誌とか」

「先輩」

「うん」

「探す気ですか」

 沙月先輩は、少しだけ目を細めた。

「渚は、探したくない?」

 窓の外で、屋根から落ちた雪が、どさりと音を立てた。

 屋上。

 卒業式のあと。

 待ってる。

 たったそれだけの言葉なのに、聞き終わったあとも、耳の奥でずっと残っていた。

 会えたのかもしれない。会えなかったのかもしれない。何でもない卒業生同士の約束だったのかもしれない。

 それでも、声の中にあったためらいだけは、本物だった。

 私は中学一年の冬、転校していった友達に、最後まで手紙を書けなかったことを思い出した。書き出しだけを何度も変えて、結局、白い便箋のまま引き出しにしまった。会えるよ、と周りは簡単に言ったけれど、会えなかった。

 何も言わなければ、会えなくなることは、案外簡単だった。

「探してみても、いいですか」

 私が言うと、沙月先輩の口元がゆるんだ。

「うん」

「でも、放送の作業もありますから」

「もちろん」

「勝手に卒業生の話を人に言わない」

「もちろん」

「屋上には、鍵を壊してまで入りません」

「……それは、ちょっと考えてた」

「だめです」

「冗談」

「先輩の冗談は信用できない」

 先輩は声を立てずに笑った。

 その笑い方を聞くと、張りつめていたものが少しだけゆるむ。

 私はラジカセからテープを取り出し、緑色のケースに戻した。ケースの内側には、誰かの指で擦れたような白い跡があった。何度も開け閉めされたのかもしれない。

 誰かが、これを聞き返していたのかもしれない。

「明日、図書室から始めましょう」

 私はノートを閉じた。

「卒業アルバムと、部誌。あとは当時の先生の名前が分かれば」

「渚」

「はい」

「頼もしい」

「先輩が始めたんでしょう」

「でも、渚が一緒なら、ちゃんと見つかりそう」

 その言葉だけで、ひどく困った。


 片づけを始めると、沙月先輩は一つ一つのテープを、ケースの割れ具合まで確かめながら箱へ戻した。

 私よりずっと手が早いのに、雑にはしない。曲がったラベルを貼り直し、ケースに入りきらない紙片を小さな封筒へまとめる。

「先輩、帰りのバスは」

「一本遅いのにする」

「私もです」

「そうだと思った」

「何でですか」

「渚、気になると帰らないから」

「先輩もでしょう」

「私は部長だから」

「便利な言葉ですね」

 テープをしまい終えると、廊下の蛍光灯は半分だけ消えていた。先生たちが順番に消して回っているのだと思う。

 放送室の鍵を閉め、私たちは昇降口まで歩いた。

 外は完全に暗く、雪は止んでいた。空気だけが、さっきより冷たい。

 正門脇の自動販売機の前で、沙月先輩が足を止めた。

「温かいの、飲む?」

「先輩のおごりなら」

「図々しい」

「急ぎで呼び出されたので」

「それをまだ言う」

 結局、先輩は私にミルクティーを買ってくれた。自分は缶のココアを選び、開ける前に両手で包んでいる。

 バス停のベンチは雪で濡れていたので、私たちは屋根の下に立った。

 校門の向こうに、校舎の窓がいくつか見える。放送室の窓は、ここからだと小さな黒い四角だった。

「沙月先輩は」

 缶を握ったまま、私は言った。

「閉校するの、平気ですか」

「平気じゃないよ」

 先輩はすぐに答えた。

「でも、卒業するから。私の場合は、学校が続いていても、もう毎日ここには来ない」

「そうですけど」

「渚は、来年も学校があったら、放送部を続けた?」

「続けたと思います」

「じゃあ、余計に嫌だよね」

 私は缶の口を見た。

 ミルクティーの湯気は、夜の空気にすぐ消える。

「この学校の放送室、好きだったので」

「私も」

「機材は古いですけど」

「そこも含めて」

 先輩の目元がほころんだ。

「音が少しだけ曇るラジカセとか、昼の放送で誰かが机を叩く音とか。ここでしか聞こえないものがある」

「さっきのテープみたいに」

「うん」

 バスのヘッドライトが、坂の下に見えた。

 先輩は空になった缶を、ごみ箱へ入れた。

「だから、最後に残すなら、ちゃんと残したい」

「放送ですか」

「放送も。テープも。渚が見つけたものも」

「私が見つけたんじゃないです」

「一緒に聞いた」

 先輩は言った。

「それで十分」

 バスが停まり、扉が開く。

 私は先に乗った。振り返ると、先輩も同じ便に乗ってきた。

 座席は空いていたのに、私たちは隣同士には座らなかった。前と後ろの、一つずつずれた席に座る。

 いつものことだった。

 それなのに、窓に映る先輩の横顔を、私は何度も見てしまった。


 バスが校門を離れても、暗くなった放送室の中に、さっきの二人の声がまだ残っている気がした。

 待ってる。

 私も待ってる。

 学校を離れたあとも、その音だけは、なかなか消えなかった。


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