第8話 零距離班
黒い針は、革袋ごと消えていた。
保管庫の扉には、三重の封印がかかっていたらしい。
一つ目は、夜間の出入りを禁じる学院の封印。
二つ目は、保管責任者の鍵で開く封印。
三つ目は、革袋へ直接かけられた封印。
そのすべてが破壊された形跡もなく、正しい手順で解かれていた。
「つまり、学院の人間が持ち出したんですか」
「その可能性が高い。だが、今は誰も疑うな」
寮の部屋まで来た教師は、険しい顔で答えた。
「君は昨夜から、この部屋を出ていないな?」
「出ようにも、廊下に見張りがいました」
教師が見張り役へ確認する。
俺が眠ってから警鐘が鳴るまで、扉は一度も開いていない。
これで俺は、黒い針を盗んだ疑いからは外れるらしい。
けれど、胸の重さは消えなかった。
誰かが証拠を消したかった。
それも、学院の封印を正しく解ける誰かが。
◇
翌朝、俺たちは再び審問室へ集められた。
長い机の中央には学院長。その隣にガルド教官と、疲れた顔の保管責任者がいる。
ヴァイス教授の席は空いていた。
「カルダン教授は北方結界の点検へ出ている」
俺の視線に気づいたのか、学院長が言った。
「昨日の竜襲来を受け、予定を早めた。証拠品の盗難が発覚する前に出立している」
なら、針を盗めなかったことの証明になるのだろうか。
そう思ったが、口には出さなかった。
「黒い針は現在も捜索中だ。保管庫へ入る権限を持つ者は二十七名。昨夜の所在確認が終わるまで、結論は出せない」
二十七名。
多すぎる。
保管庫の内側に敵がいると分かっても、それが誰なのかまでは分からない。
学院長は机上の書類を一枚めくった。
「先に、君たちの処分について伝える」
リゼが背筋を伸ばす。
ダリオは腕を組み、ミナは膝の上で指を握った。
「リゼ・アルヴェイン、ダリオ・ベルン、ミナ・フェル。三名の規則違反については、竜襲来時の緊急避難行動として処分を保留する」
三人の肩から、わずかに力が抜けた。
「シオン・レイス」
「はい」
「君の再試験は、竜の襲来によって中断された。したがって、不合格とすることも、合格とすることもできない」
予想していなかった言葉だった。
「学院の規定では、十メートル先の標的へ魔法を当てる必要がある。君は達成していない。一方で、通常の遠距離魔法が通じない鉄翼竜を撃墜した。これを無価値とする判断もできない」
学院長は、別の書類を俺の前へ滑らせた。
最上部に《特別実証課程》と書かれている。
「期間は三十日。君を通常課程から移し、武器へ魔力を留める現象が、魔術として安全に再現できるか検証する」
「安全に……」
「竜を落とす最大威力を、もう一度見せろという意味ではない」
ガルド教官が横から言った。
「同じ条件で、同じ結果を出せること。必要な威力を選べること。使ったあとも術者と武器が壊れていないこと。そこまでできて初めて、実戦で使える技術だ」
砕けた訓練剣を思い出す。
俺の手に残ったのは柄と短い欠片だけだった。
あの一撃を繰り返せば、いずれ剣ではなく腕が壊れるかもしれない。
「実証に失敗した場合は?」
「中断された再試験を不合格として処理する。奨学資格を失い、今期で退学だ」
胸の奥が冷える。
けれど、それは昨日までと変わらない。
「成功した場合は」
「君の現象を新たな魔術体系として審議し、その結果に基づく再試験を認める」
「合格ではないんですね」
「君はまだ、試験を終えていない」
学院長は厳しい表情のまま答えた。
特別に合格させてもらうわけではない。
俺の魔法を測れる試験へ、もう一度挑めるだけだ。
それでいい。
「受けます」
迷う理由はなかった。
「なお、実証は一人では行わせない」
学院長の視線が、俺の隣へ移る。
「事故当事者であり、すでに観測記録を持つ三名を補助観測員へ任命する。アルヴェインは魔力流と移動経路、ベルンは攻撃および回収手段、フェルは損傷と安全管理を担当せよ」
「待ってください」
俺は思わず声を上げた。
「これは俺の再試験です。三人まで巻き込むのは――」
「また、それ?」
リゼが冷たい声を出した。
「昨日、自分一人では帰ってこられなかったことを忘れたの?」
「忘れてない。でも、三十日も付き合わせるのは」
「私が最初に異常を見つけたのよ。最後まで観測する」
「俺は昨日の救命索が偶然だったと言われるのが気に入らない」
ダリオも続く。
「次は、お前を狙った場所へ確実に引き戻す」
「私は皆さんが壊れないか確認します」
ミナが言った。
「放っておくと、先輩は剣が壊れたあとに自分の腕を使いそうですから」
「さすがに腕で竜は斬れない」
「斬れるかどうかではなく、試すことを心配しています」
否定しきれなかった。
ガルド教官が、片方しかない腕で書類を持ち上げる。
「では、実証班の責任者は俺が引き受ける」
「班名が必要です」
記録を取っていた教師が言う。
「仮称でも構いません」
ガルド教官は、俺たち四人を順に見た。
風で飛ばすリゼ。
火槍で救命索を撃ったダリオ。
水膜で受け止めたミナ。
そして、魔法を一歩も飛ばせない俺。
「《零距離班》でいいだろう」
「もう少し格好のいい名前はないんですか」
「三十日後も残っていたら考えてやる」
どうやら仮の名前らしい。
それでも、書類には本当に《零距離班》と記された。
◇
最初の仕事は、訓練ではなかった。
湖畔の隔離厩舎で、鉄翼竜の状態を調べることになった。
竜は太い拘束鎖の内側で伏せている。左翼は固定されていたが、呼吸は昨夜より穏やかだった。
「暴れた様子はありません」
ミナが治療記録をめくる。
「首の傷も塞がり始めています。ただ――」
竜の右肩へ近づき、鱗の一枚を指した。
「ここにも傷があります」
首から抜いた針の跡とは違う。
右の翼と胴の間に、小さな丸い穴が残っていた。
「何かを抜いた跡か?」
「抜け落ちたのかもしれません。傷の深さと、鱗に残った黒い樹脂は、首の針とよく似ています」
二本目。
黒い針は、最初から一本ではなかった。
リゼが傷口の近くへ、ごく弱い観測風を流す。
風が細く震え、竜の身体を巡ってから北へ伸びた。
「残留魔力がある」
「どんな術式だ」
「さっきから、同じ方向へ反応してる。竜を苦しめる動きじゃない。何かの位置を教えるような……」
リゼが隔離厩舎の窓を開けた。
夕暮れの北空に、青白い点が見える。
王都と竜嶺の間に立つ、北方第一結界塔の灯だ。
観測風は、まっすぐその光を指していた。
「竜を暴れさせる針と、向かう場所を教える針」
ダリオが低く言う。
「誰かが二本を使って、こいつを学院へ送り込んだのか」
鉄翼竜が顔を上げた。
金色の目が、窓の向こうへ向く。
その瞬間だった。
北の空で、第一結界塔の明かりが消えた。
ほんの一呼吸。
青白い光はすぐに戻った。
だが、竜の喉から、怯えたような低い声が漏れた。
俺たち四人は、誰も窓から目を離せなかった。
第一結界塔が消えた方向には、今朝出立したヴァイス教授がいる。




