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第9話 失われた纏式

 北方第一結界塔の光は、あのあと消えなかった。


 翌朝には、塔から学院へ報告が届いた。


『点検中、一時的な出力低下を確認。結界機能に異常なし』


 簡潔な文面の最後には、ヴァイス教授の署名があった。


「異常なし、ね」


 リゼは報告書を窓の光へ透かしながら言った。


「私たちが見たのは、ただの点検だったってこと?」


「塔を調べるのは俺たちの仕事じゃない」


 ガルド教官が答える。


「だが、二本目の傷と残留魔力については学院長へ報告した。今はそれでいい」


 口調はいつもどおりだったが、報告書を受け取る目は笑っていなかった。


 俺たち《零距離班》は、旧訓練場の資料室に集められている。


 机の上には、分厚い本が三冊。


 どれも表紙が擦り切れ、革紐で閉じられていた。


「今日から実証課程を始める」


 ガルド教官が、一番古い本の紐を解く。


「まずは、お前の魔法に名前をつけるところからだ」


「零距離魔法じゃないんですか」


「あれは班名だ。適当につけた」


「やっぱり適当だったんですね」


「名前なら、もうある」


 開かれたページには、剣を構える騎兵の絵があった。


 騎兵の周囲を、何本もの細い線が巡っている。線は腕から槍へ進み、穂先まで届くと、また身体へ戻っていた。


 古い文字で、絵の上に二文字が記されている。


「《纏式》」


 リゼが読み上げた。


「魔力を飛ばさず、身体や武器へ纏わせる術式。百年以上前、結界塔が完成するより前の竜騎兵が使っていた」


 ガルド教官が、自分の肩口へ触れる。


 左腕を失った場所だ。


「遠距離魔法が通じにくい竜へ、武器を直接当てて魔力を流し込む。お前が鉄翼竜へやったことと同じだ」


「刃が触れた瞬間だけ、術者と武器と標的が一つの回路になる。空気の中を飛ばさず、触れた相手の内側へ力を通す。それが纏式だ」


「そんな魔法があったなら、どうして授業で教えないんですか」


 ミナの問いに、教官は次の本を開いた。


 こちらに絵はない。


 日付と名前、それから短い記録だけが並んでいる。


『槍身破裂。右手指三本欠損』


『接触時の逆流により、肩部魔力路を損傷』


『術式維持不能。二十三歳で退役』


 ページをめくっても、似た記録が続く。


「危険だからだ」


 ガルド教官が言った。


「魔力を武器から逃がさなければ、武器は耐えきれずに壊れる。標的へ押し込む量を誤れば、行き場を失った力が術者へ戻る。強い術者ほど、自分の力で身体を壊した」


 俺は包帯の外れた右腕を見る。


 竜を斬ったときは、剣のほうが先に砕けた。


 もし、あれがもっと丈夫な剣だったら。


 壊れる場所が、俺の腕に変わっていただけかもしれない。


「歴代の使い手は、みんな短命だったんですか」


「戦死者が多い。生き残っても、腕か魔力路を痛めて早くに前線を去っている」


「ずいぶん危険なものを、よく俺に教えようと思いましたね」


「知らずに使うほうが危険だ」


 教官の声が低くなる。


「俺は、お前が竜を落としたからこの本を見せたんじゃない。もう一度同じことをすれば、次は死ぬかもしれないから見せた」


 その言葉に、誰も返事をしなかった。


 最後の一冊は、他の二冊より薄かった。


 ガルド教官が開くと、そこには人体を巡る魔力路が描かれている。


 普通の魔術師なら、胸で生まれた魔力が腕を通り、掌から外へ流れる。


 だが、その絵では、掌へ達した線が外へ出ず、皮膚の内側を通って胸へ戻っていた。


「《閉環》」


 今度は俺が読んだ。


「纏式の使い手の中でも、まれにいた体質だ。魔力の出口がなく、身体と手にした武器の間を循環し続ける」


 ガルド教官が、ページと俺を交互に指す。


「現代の測定器なら、飛距離はどう出ると思う?」


「零です」


「正解だ」


 何度も俺を落第させた数字が、古い本の中にもあった。


 失敗の記録ではない。


 百年前には、名前のある体質だった。


 胸の奥が熱くなる。


 俺と同じ人間がいた。


 剣へ魔力を込め、飛ぶ竜へ立ち向かった者たちが、本当にいた。


「嬉しそうなところへ悪いけれど」


 リゼが閉環の図の横を指した。


 小さな文字で注意書きがある。


「通常の纏式より、武器の損耗と逆流の危険が高い、と書いてあるわ」


「最後まで読ませてくれ」


「先に読んだから伝えたの」


 嬉しさに冷たい水をかけられたようだった。


 ミナは、なぜか安心した顔をしている。


「無茶を止める人が、私以外にもいてよかったです」


「それでは最初の訓練だ」


 ガルド教官が本を閉じる。


 机の下から取り出したのは、訓練剣と三枚の薄い木札だった。


 木札の中央には、豆粒ほどの赤い点が描かれている。


「点だけを焦がせ。札を割るな。剣を壊すな」


「それだけですか」


「竜を落とした男には簡単すぎるか?」


「いえ、そういう意味では」


 訓練剣を握る。


 木札は机の上に寝かされている。空へ飛ぶ竜と違って、動きもしない。


 剣先を赤い点へ触れさせ、最も小さな火の術式を作る。


 普段の一割。


 いや、さらに半分。


 魔力を剣へ流した。


 ぱきり、と音がした。


 木札が中央から二つに割れた。


 赤い点だけでなく、机まで細く焦げている。


「失敗だ」


「今ので?」


「札を割るなと言った」


「火しか使ってません。衝撃は入れてないです」


「お前の中の最小が、普通の最小ではないということだ」


 リゼが観測板へ数字を書く。


「ほとんど漏れていない。込めた量が少なくても、全部届いてる」


「無駄がないのも、困ることがあるんだな」


 ダリオが面白そうに言った。


「代わるか?」


「俺なら点を十メートル先から撃ち抜ける」


「今は十メートルが余計なんだよ」


 二枚目を置く。


 今度は、火球を作るよりずっと手前で魔力を止めた。


 剣先を触れさせる。


 木札は割れなかった。


 代わりに、赤い点を中心に大きな黒い染みが広がった。


「失敗」


 リゼが即答する。


「分かってる」


 三枚目。


 魔力を少なくするだけでは駄目だ。


 剣全体へ流せば、触れていない場所まで熱が広がる。


 必要なのは、剣へ力を溜めることではない。


 触れている切っ先へ、必要な分だけ通して、すぐ止めることだ。


 息を整える。


 胸から腕へ流れる魔力を、糸一本ほどに細くする。


 剣先が赤い点へ触れた瞬間だけ、火へ変える。


 じ、と小さな音がした。


 すぐに術式を解き、残った魔力を腕へ戻す。


 木札は割れていない。


 赤い点の上に、同じ大きさの焦げ跡がついていた。


「できた……」


「合格には早い」


 ガルド教官が訓練剣を取り上げる。


 刃を窓の光へ向けると、剣先に髪の毛ほどの亀裂が入っていた。


「今のでさえ、安物の剣には負担が残る」


「でも、竜のときよりずっと少ないですよ」


「だから厄介なんだ。お前は全力を一度出すより、同じ弱い力を百回出す訓練をしなければならない」


 教官は、焦げ跡のついた木札を俺へ渡した。


「三十日のうちに覚えろ。壊すためではなく、壊さないための纏式を」


 豆粒ほどの焦げ跡を見る。


 鉄翼竜を叩き落としたときより、ずっと小さな一撃だ。


 けれど今の俺には、あの竜より難しい標的に思えた。

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