第35話 最後の風
『中央塔への接触まで、二十八秒!』
ミナの声と同時に、火の尾が西塔から空を裂いた。
ダリオの火鎖だ。
先端の鉤が、アルガディアの頭上をかすめる。
外れた。
そう見えた直後、鉤から開いた三本の爪が、左の角の根元へ食いついた。
火花が散る。
アルガディアの青い光が、火鎖へ逆流した。
『術式を切る!』
ダリオが叫ぶ。
鉤を飛ばしていた火が消えた。
残ったのは、角にかかった鉄の鉤と鋼索だけだ。
魔法ではない。ただの鉄なら、アルガディアの鱗にも吸われない。
鉤が噛んだのも、血の通わない角の外殻だ。
傷つけるためではなく、俺を届けるための一射だった。
『シオン、首まで走れ!』
俺は落下する背の上を駆けた。
風は真下から吹き上げている。それなのに、一歩ごとに身体が後ろへ持っていかれる。
アルガディアが落ちながら首を振った。
角に刺さった痛みではない。
胸の核がまた脈打ったのだ。
白い魔力が翼へ流れ、自由になったはずの身体を無理にねじる。
背が傾いた。
俺の足が鱗から離れる。
「っ!」
レイヴの鍔を鱗の縁へかける。
肩が抜けそうな衝撃を、右腕一本で受け止めた。
痛みで指が開きかける。
『右へ二枚! 次の鱗は割れています!』
ミナの指示に従い、足を振った。
右の鱗へ踵をかける。
さらに一枚。
身体を背へ戻し、もう一度走る。
視界の先で、角から伸びた鋼索の端が暴れていた。
『塔側を放すぞ!』
ダリオが巻き取り機の留め具を外す。
西塔と角の間で張っていた鋼索が、一気にたるんだ。
自由になった端が、アルガディアの首へ沿って落ちてくる。
俺は飛びつき、両手で掴んだ。
腰の環へ通す。
一度巻き、留め具を閉じる。
これで角が支点、鋼索が振り子になる。
俺が、その先の重りだ。
◇
『十八秒!』
中央塔が迫っていた。
折れた尖塔の周囲で、兵士たちが退避していく。
その向こう、南西の貯水湖では、水の壁が少しずつ高さを増していた。
『治水局、第三水路を開放! 学院の水術師は南西へ集めて!』
ミナは俺を見ながら、同時に地上へ指示を飛ばしている。
『噴水も貯水槽も使います。今はきれいな水でなくていい。竜と人を受け止められる量を!』
王都を走る細い水路から、水が空へ引き上げられる。
一本では弱い流れが、何十本も集まって貯水湖へ注いでいた。
核を壊しても、アルガディアがすぐ飛べるとは限らない。
ミナはもう、その先を作っている。
『物理弩砲、待機を継続する』
司令官の声が入った。
『残り二秒まで、お前たちの作戦を優先する』
残り二秒を切れば、市民を守るため翼を撃つ。
迷っている時間はない。
『胸の光、見えました!』
空中の水鏡に、アルガディアの腹側が映る。
青い胸鱗の奥で、白い光が膨らんでいる。
『中心は前脚の間。喉から数えて、大鱗七枚目!』
「見つけた」
背の上からは見えない。
だが場所は頭に入った。
俺は鋼索を握り直し、首の左側へ足をかける。
『待て』
ダリオが低く言った。
『索がねじれている。腰の環を一度右へ回せ。今飛べば、腹へ回る前に首へ叩きつけられる』
急ぎたい。
残り時間は削れている。
それでも、俺は足を止めた。
自分一人の勘で飛び出さない。
この一撃は、俺だけのものじゃない。
腰の留め具を少し緩め、鋼索を送りながら身体を右へ回す。
鋼索を伝う震えが一度、大きく揺れた。
次に、小さく二度。
『よし、ねじれは取れた。長さも足りる』
「了解」
『十二秒!』
◇
リゼが両手を組んだ。
水鏡越しにも、顔色が白いと分かる。
彼女の周囲には、もう風が残っていなかった。
西塔の旗も、崩れた屋根の煙も動かない。
王都の空に散った風を、一本残らず彼女の掌へ集めている。
『シオン』
かすれた声が届く。
『今から作るのは足場じゃない。胸まで押す、一度だけの風よ』
「うん」
『帰りは――』
言葉が止まる。
戻す風はない。
分かっている。
「核を壊したあと、みんなが作った湖へ落ちる」
『……必ず』
「必ず」
俺は答え、鋼索を掴んだまま背を蹴った。
アルガディアの左側へ身を投げる。
空しかない。
落下する巨体と同じ速さで、俺も落ちる。
鋼索が伸びきった。
腰を強く引かれ、身体が弧を描く。
角を支点に、首の横から下へ。
青い鱗の崖が目の前を流れていく。
前脚を越えた。
腹側へ回る。
『もう少し下!』
ミナの声。
俺は鋼索を一腕分だけ送り出した。
胸の大鱗が見えた。
一枚。
二枚。
喉から七枚目。
その中央だけが、内側から白く透けている。
「見えた!」
だが振り子の勢いが弱い。
刃を伸ばしても、指二本分届かない。
ここで一つ目の合図が来た。
腰の鋼索が、振り子の重みで強く鳴る。
『支点、固定!』
二つ目。
水鏡の光が胸鱗の一点へ重なる。
『位置、そこです!』
三つ目。
止まっていた王都の旗が、すべて同時に南西へなびいた。
『風、送れる!』
三人の声が重なる。
『行ける?』
俺はレイヴを両手で握った。
刃へ残る魔力を、薄く、狭く、一点へ集める。
「行ける!」
最後の風が背中を打った。
身体が鋼索の円から外れ、アルガディアの胸へ一直線に飛ぶ。
白く光る大鱗が迫る。
俺は剣を振りかぶらなかった。
狙った一点へ、まっすぐ突き立てる。
レイヴの切っ先が胸鱗へ触れた。
閉じた回路がつながる。
鱗の内側が、刃を通して掌へ伝わった。
厚い外鱗。
その奥に、薄い膜。
さらに奥で膨れ上がる、誘竜核の殻。
届いた。
そう思った瞬間、胸鱗の下で硬い音がした。
ひびが入ったのは、核ではない。
外鱗と核の間に、もう一枚、青い内鱗が残っている。
ここで力を解放すれば、その一枚を割るだけでレイヴが砕ける。
核へ届く前に、最後の一撃を使い切ってしまう。
『中央塔まで、八秒!』
レイヴの補修帯にも、白い亀裂が走った。
刃は触れている。
けれど、一層だけ届かない。




