第33話 竜の背
ネーヴァが、アルガディアの正面へ出た。
大きさは親子ほども違う。
鉄色の翼が一度動く間に、蒼天竜の翼は王都の通りを端から端まで覆う。
「戻れ、ネーヴァ!」
叫んでも届かない。
火鎖に引かれる俺の横を、ネーヴァは上昇していく。
傷ついた左翼を、リゼの風が下から支えていた。
アルガディアの口元へ青白い光が集まる。
ネーヴァは避けなかった。
金色の目で古竜を見つめ、喉の奥から低い音を出す。
耳で聞くというより、骨へ伝わる声だった。
一度。
短く途切れ、また一度。
ネーヴァが誘竜針の傷へ治療水を触れさせられたときと同じ音だ。
痛みを訴える声。
アルガディアの瞳が細くなった。
口元の光が揺れる。
ネーヴァは首を傾け、自分の古い傷を見せた。
次に、アルガディアの首の後ろで脈打つ第三杭へ鼻先を向ける。
もう一度、低く鳴いた。
蒼天竜の翼が止まった。
青白い光が口からこぼれ、細かな粒になって消える。
同じ言葉を話しているのかは分からない。
けれど、痛みは伝わった。
アルガディアはネーヴァを攻撃しなかった。
◇
「右手を開いて!」
西塔へ着地するなり、治癒科の教師が俺の腕を取った。
通信晶の向こうでは、ミナが観測盤を見ている。
「親指と人差し指が動きません」
「逆流ではなく、魔力路の腫れです」
治療水が手首から肘へ流れる。
焼けた魔力路の周りを、冷たい膜が薄く包んだ。
「無理に力を通せば、今度は完全に塞がります」
「第三杭へ行く方法は」
「まず治療です」
以前なら、時間がないと言って振り切っていた。
俺はレイヴを左手へ持ち替え、治療を受ける。
空では、ネーヴァがアルガディアへ低い声を送り続けている。
そのたびに古竜の羽ばたきが弱くなる。
ただし、止まったわけではない。
巨大な身体は慣性のまま、王都中央塔へ近づいていた。
『猶予は一分半です』
ミナが言う。
『それ以上はネーヴァの翼ももちません』
鉄色の左翼を支える風が乱れている。
包帯に赤い色が滲み始めていた。
「指が動いたら、行っていいか」
『条件があります。第三杭は首の神経に近すぎます。斬らないでください』
「斬らずに、どう外す」
『杭の温度が周囲の鱗より高いんです。誘竜核から魔力を受けて、ずっと熱を持っています』
観測盤に、第三杭の断面が映る。
赤い杭の周囲を、紫色の硬化樹脂が固めている。
『金属だけを冷やせば縮みます。樹脂との間に隙間を作って、まっすぐ抜いてください』
「冷却術式なら、流す量は少ない」
『だから許可します。ただし、指の感覚が戻ってからです』
治療水の下で、親指が震えた。
人差し指も、遅れて曲がる。
痛みはある。
それでも、柄の革紐を一本ずつ感じられた。
「戻った」
『握力を確認します。三つ数えるまで開かないで』
教師が差し出した木片を握る。
一。
二。
三。
落とさなかった。
『第三杭だけです。終わったら必ず戻って』
「分かった」
今度は、その言葉を守れる。
◇
アルガディアの背が、中央塔の横を通り過ぎる。
最も近づくのは、あと数秒。
ダリオが火鎖の接合部を確かめる。
「竜の背へ乗ったら、鋼索は緩める。走る邪魔にはしない」
「落ちたら?」
「緩めた分まで落ちてから止まる」
「高そうだな」
「落ちないように走れ」
通信晶から、リゼの声が届く。
『ネーヴァが作った隙は一度だけ。足場は四つ作るわ』
「四つとも一秒以下か」
『今はもっと短い。でも、アルガディアが羽ばたいていないから風は読める』
水鏡の粒が、空中に白い道を描いた。
『シオン、行ける?』
右手を開く。
動く。
レイヴを握る。
感触もある。
「行ける」
西塔の屋根を走った。
「前へ――踏んで!」
一つ目。
「右上!」
二つ目。
風は足が離れるより先に消えていく。
それでも次の位置は、リゼの声が教えてくれる。
「左前、二歩!」
三つ目。
頭上をアルガディアの腹が通る。
「最後、真上!」
四つ目を両足で蹴った。
身体が青黒い雲を抜ける。
目の前に、どこまでも続く青い鱗が現れた。
アルガディアの背へ着地する。
膝をつき、鱗の縁へ左手をかけた。
「着いた!」
『第三杭は首の付け根、前へ四十歩です!』
走る。
鱗一枚が、俺の身体より大きい。
平らな道ではない。立ち上がった縁を越え、谷のような隙間を跳ぶ。
アルガディアの身体が上下するたび、足元の山が動いた。
ネーヴァの声が近い。
古竜は前を見たまま、その声を聞いている。
「あと十五歩!」
第三杭が見えた。
翼の杭より太く、根元まで鱗の下へ埋まっている。
すぐ横を、青白い光の筋が走っていた。
首を動かす神経だ。
ここで樹脂を斬れば、刃が少し深く入っただけで神経へ届く。
俺は振り上げかけたレイヴを下ろした。
斬らない。
刃の腹を、第三杭の露出した部分へ押し当てる。
接触した瞬間、焼けるような熱が伝わった。
硬化ではなく、冷却。
初等魔術の授業で、水筒を冷やすために習った術式だ。
俺が使えば冷気は飛ばない。
刃の中だけを巡る。
だから、触れている杭だけを冷やせる。
「少しずつだ」
冷却を一層。
赤かった杭が黒くなる。
もう一層。
表面に白い霜が広がった。
周囲の樹脂は冷やさない。
鱗にも流さない。
杭だけが縮み、硬化樹脂との間に髪の毛ほどの隙間が生まれる。
『そこで止めて!』
ミナの声に、冷却を止めた。
さらに縮めれば抜きやすくなる。
けれど金属が割れ、中に残る危険もある。
必要なのは、今できた隙間だけだ。
レイヴの鍔を杭の輪へかける。
両手で柄を握った。
「アルガディア、少し痛いぞ」
ネーヴァが低く鳴く。
古竜の首から力が抜けた。
「今!」
まっすぐ引く。
第三杭が、樹脂の筒から滑り出した。
途中で引っかかる。
力任せにこじりたくなる。
我慢して、角度を指一本分だけ変える。
もう一度、まっすぐ。
黒い杭が抜けた。
俺は背中から転がり落ちそうになり、鱗の縁へしがみつく。
『第三杭、分離を確認!』
首から翼へ伸びていた最後の赤黒い線が消える。
アルガディアが、長い息を吐いた。
苦鳴ではなかった。
初めて聞く、静かな竜の声だった。
ネーヴァも同じ高さで鳴き返す。
三本の杭は外れた。
誘導は止まった。
これで自由になる。
そう思った瞬間。
俺の足元で、青い鱗が白く透けた。
アルガディアの胸に残る誘竜核が、太陽のような光を放った。




