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第31話 第一の翼

 風の足場へ、最初の一歩を踏み出した。


 靴底に硬い感触が返る。


「シオンの左前、二歩――踏んで!」


 リゼの声に従い、次の足場へ跳ぶ。


 振り返らない。


 足元も見ない。


 正面にあるアルガディアの左翼だけを見た。


 赤黒い誘導杭が、青い鱗の間で脈打っている。


『実証期限まで五十秒』


 ミナの声が、観測盤を通して届く。


「第一杭まで、あと百二十歩です」


「遠いな」


「今さらです!」


 腰の火鎖が空中で弧を描く。


 西塔の屋上にいるダリオが、鋼索の重さを支えている。


 俺の足元にある風は、まだ消えていない。


 通常なら三秒。


 あと二歩は走れる。


「次、上へ一歩!」


 右足を上げた瞬間、支えていた風がなくなった。


「なっ――」


 身体が落ちる。


 次の足場へ伸ばした右足も、空を切った。


「火鎖、張るぞ!」


 ダリオが鋼索を引き、落下が止まる。


 中央塔の壁より低い位置で、俺の身体が振り子のように揺れた。


「三秒もってない!」


 リゼの声が震える。


「作った風が、竜の方へ吸われました。持続、零・八秒です!」


 ミナの観測結果が続く。


 一秒もない。


 足場を確かめてから踏んでいたら、間に合わない。


「戻します!」


 リゼの帰還風が背中へ回る。


 ここで一度、塔へ戻る。


 それが決めた手順だ。


「戻る!」


 俺は迷わず答えた。


 ダリオが火鎖を緩め、リゼの帰還風が身体を中央塔へ引き戻す。


 石壁へ足をつき、窓枠を蹴って屋上へ戻った。


『実証期限まで三十九秒』


 失敗した。


 けれど、終わりではない。


「原因は分かった」


 俺は火鎖の留め具を確かめる。


「一つの足場に二歩乗ろうとしたからだ」


「一歩でも危険よ」


「なら、踏んだ瞬間に次へ跳ぶ」


「足場を作る間隔が狭すぎます。リゼ先輩の魔力が先に尽きます」


 ミナの声。


「全部を同時に作らなくていい」


 リゼが杖を握り直した。


「シオンが前の足場を蹴る瞬間に、次を作る。一つずつなら散らされる前に固められる」


「位置を外したら?」


「外さない」


 リゼの返事は短かった。


 青黒い空を、鉄色の影が横切る。


 ネーヴァだ。


 アルガディアから離れた低い場所を飛び、貯水湖の方角へ声を上げる。


 古竜の首が、わずかにそちらへ向いた。


 左翼が下がる。


 赤黒い杭が、さっきより近くに見えた。


『実証期限まで三十秒』


「もう一度、行ける?」


 リゼが聞く。


 右手を開く。


 五本とも動く。


 ダリオの火鎖は固定されている。


 ミナの観測光が、杭と鱗の境目を細く照らした。


「行ける」


「作るわ」


 塔の外へ跳ぶ。


「左前――踏んで!」


 右足が風へ触れる。


 止まらない。


 触れた反発を使い、そのまま前へ跳ぶ。


「右上――踏んで!」


 左足の下へ風が生まれる。


 蹴った直後、足場が青い糸になってアルガディアへ吸われた。


「前へ二歩――踏んで!」


 一つ。


 一つ。


 一つ。


 風が生まれ、消える。


 俺は空を走っているのではない。


 落ちながら、そのたびに一歩だけ前へ進んでいる。


『二十秒!』


 アルガディアが翼を動かした。


 青い鱗が壁のように迫る。


 翼が起こした風だけで、身体が横へ流された。


 腰の鋼索が張る。


「右へ逃がす!」


 ダリオが火鎖を引く方向を変えた。


 翼の正面から外れ、俺の身体が縁へ回り込む。


 だが、杭も遠ざかる。


「シオンの左下!」


 リゼの風が生まれる。


 低すぎる。


 足では届かない。


 俺は左手を伸ばし、風の面を掌で押した。


 肩を軸に身体を回す。


 火鎖を中心にした振り子が、軌道を変えた。


 杭へ向かう。


『十秒!』


「打ち込まないでください!」


 ミナが叫ぶ。


「杭の周りにある黒い樹脂だけです。鱗との隙間、指二本分!」


 レイヴを両手で握る。


 大きな竜を見ない。


 翼も見ない。


 赤黒い杭と、青い鱗の間。


 ミナの光が示す細い線だけを見る。


 もっと力を込めたくなる。


 この巨体を前にすると、短い剣が頼りなく感じる。


 けれど、竜を斬る必要はない。


 必要なのは、一回分。


「今!」


 レイヴの刃先が、黒い樹脂へ触れた。


 接触した一点から、杭の内部が手へ伝わる。


 外殻。


 鱗へ食い込む三つの爪。


 魔力を送り込む細い管。


 全部を壊せば、翼も傷つける。


 俺は魔力を刃の幅より細く絞った。


 爪と鱗をつなぐ樹脂だけへ流す。


 強くではない。


 深くでもない。


 必要な場所へ、必要な分だけ。


「切れろ!」


 短い刃を横へ滑らせる。


 黒い樹脂に一本の線が走った。


 三つの爪が同時に外れる。


 誘導杭がアルガディアの左翼から抜け、空へ落ちた。


『三秒!』


 翼を走っていた赤黒い光が消える。


 代わりに、青い血が細く滲んだ。


 それだけだ。


 鱗は割れていない。


 翼も斬っていない。


『第一杭、分離を確認!』


 ミナの声が、王都中の通信晶から響いた。


『零!』


 実証期限の時計が止まる。


 俺の足元には、もう風がない。


 アルガディアの左翼が跳ね上がり、身体が空へ放り出された。


「回収!」


 ダリオの火槍が西塔で爆ぜる。


 魔法が押したのは、竜ではない。


 鋼索を巻き取る滑車だ。


 火鎖が腰を掴み、俺の身体を翼の下から引き抜く。


 青い鱗が頭上を通り過ぎた。


 次の瞬間、リゼの帰還風が背中を受け止める。


 鋼索だけなら、翼へ叩きつけられていた。


 風だけなら、竜に吸われて消えていた。


 二つが重なり、俺はダリオのいる西塔へ戻る軌道へ乗った。


 地上と屋上から、声が上がる。


 兵士。


 学院の教師と生徒。


 貯水湖へ向かう水魔術師たち。


 誰か一人の魔法に送られた声ではない。


 王都のあちこちから起きた歓声が、遅れて空で一つになった。


『第一杭の除去を確認』


 北境軍司令官の声が、通信晶へ流れる。


『零距離作戦の実行可能性を承認する。全部隊は支援を継続せよ』


 火鎖に引かれながら、俺はレイヴを見た。


 刃の静かな光は消えている。


 亀裂はない。


 右手の五本の指も動く。


 一回目は、終わった。


 残りは三回。


 アルガディアが、こちらを見た。


 青い瞳が、西塔へ引かれる俺を通り過ぎる。


 その視線の先には、風の杖を掲げるリゼがいた。

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