第30話 十分間の零距離作戦
『残り九分四十秒』
赤い時計の下へ、王都の地図を広げた。
指揮室にいた近衛、学院教員、防衛隊の責任者が机を囲む。
さっきまで俺たちの報告を疑っていた人たちだ。
今は全員が、俺たちの言葉を待っている。
「最初に、撃つ魔法は使いません」
俺は地図の北側にある青い竜影を指した。
「炎も雷も、竜へ届く前に吸われます。攻撃魔法はすべて停止したままにしてください」
「では、何を使う」
北境軍司令官が問う。
「道と、鎖と、水です」
俺は三人を見る。
「それと、剣を一本」
◇
『残り九分』
「誘導杭は三本です」
ミナが観測盤の像を地図へ重ねた。
アルガディアの左翼、右翼、首の後ろへ赤い点が浮かぶ。
胸には黒い誘竜核。
「杭を一つ外すたび、核が翼と首を強制する経路を減らせます。順番は左翼、右翼、首。最後に胸の核です」
「なぜ左からだ」
近衛隊長が聞く。
「古竜は南西へ旋回するとき、左翼を下げています。最初の杭へ近づきやすい」
リゼが観測風の線を地図へ描いた。
「現在の風は北東から南西。中央塔へ向かう竜に対して横風になります。シオンを直接飛ばすのではなく、風の足場を連続して置きます」
「足場の持続は?」
「通常なら三秒です」
リゼは一度、窓の外を見た。
青黒い雲が中央塔へ近づいている。
「ただし、竜の周囲では魔力を吸われます。何秒残るか分かりません」
「だから、一つが消える前に次へ移る」
俺が言う。
「失敗した場合は?」
「俺が回収する」
ダリオが火鎖の鉄鉤を机へ置いた。
「魔法で鉄鉤を射出した直後、術式を切る。あとは物理的な鋼索だ。竜に吸われない」
「鋼索の長さが足りん」
防衛隊の技師が首を振る。
「中央塔から城壁まででも、今の三倍は要る」
「なら、つないでください」
ダリオは即答した。
「王都の昇降機、荷揚げ塔、跳ね橋。救命索として使える鋼線を全部集める。太さはそろわなくていい。接合部だけ、火に耐える留め具を」
「固定場所は?」
「西塔を支点にします」
ダリオが、中央塔と古竜の予測進路の間にある西塔を指した。
「最初は中央塔から踏み出すシオンへ先に鉤を渡す。以後の射出も回収も西塔へそろえる。支点を動かさなければ、引く方向を毎回計算し直さずに済む。落下方向を見て、滑車の角度だけ変えます」
技師は数秒考え、部下へ振り向いた。
「鋼線を集めろ! 接合金具は第三倉庫だ!」
◇
『残り七分三十秒』
指揮室の壁へ、貯水湖の断面図が映された。
「湖へ落とすだけでは足りません」
ミナが右手で図面を拡大する。
固定された左腕は、まだ動かせない。
「アルガディアの重さでは、水面が石床と同じになります。着水前に水を何層も持ち上げ、順番に破らせて減速させます」
「君一人で?」
「できません」
ミナはためらわず答えた。
「近衛の水魔術師と、王都の導水設備を借ります。私は水膜の厚さと位置を指示します」
「導水設備は消火と避難区画の飲料水を支えている。全量は回せないぞ」
「全量はいりません。西区と南区の高架水路だけです。避難区画への供給は東側から残してください」
設備官が図面を確かめる。
「西水門を閉じ、第三導水路を逆流させれば、貯水湖へ戻せる」
「お願いします。水魔術師は湖の北岸と東岸へ半分ずつ。竜だけではなく、周囲へ飛ぶ水と瓦礫から避難路も守ってください」
左腕を傷めた治癒科の学生が、近衛の部隊を動かしていく。
その声に迷いはなかった。
「聞いたな!」
近衛隊長が命じる。
「水術隊はフェル君の指示に従え。導水班、南西へ走れ!」
◇
『残り六分』
学院の訓練場では、ネーヴァの左翼へ細い支柱が取りつけられていた。
ロッカが黒銀の留め具を締め、ガルド教官が翼を支えている。
「骨はつながりかけだ。飛べんことはない」
ロッカが包帯の上から金具を叩く。
「だが長く飛ばせば、今度こそ翼が駄目になる」
「ネーヴァに戦わせるつもりはありません」
リゼが答えた。
「アルガディアの前へ出て、貯水湖の方へ呼んでもらうだけです。翼へは私の風を添えます」
「呼んでもらう、か」
ガルド教官がネーヴァを見る。
「本人が嫌だと言ったらどうする」
「別の方法を考えます」
リゼはネーヴァの鼻先へ手を伸ばした。
古竜の幻影を風で作る。
次に、自分と俺たち四人の姿。
胸に刺さった黒い核。
最後に、貯水湖を示す青い円。
「あの竜も、あなたと同じように痛がっている」
ネーヴァの金色の目が、幻影を追う。
「助けたい。でも、あなたの力が必要なの」
ネーヴァは傷ついた翼を一度だけ開いた。
支柱が軋む。
それでも翼を畳まず、青黒い空へ向かって低く鳴いた。
「……行ってくれるのね」
大きな鼻先が、リゼの肩を押した。
◇
『残り四分二十秒』
俺は訓練場の端で、短くなったレイヴを抜いた。
ミナが右腕の治療布を外す。
赤黒い痕は掌から肘まで残っている。
「握ってください」
ゆっくり指を曲げる。
柄を握ることはできた。
「強く」
力を入れる。
手首に痛みが走るが、刃は落ちない。
「一回ごとに合図を聞いてください。指が一本でも動かなくなったら中止です」
「分かった」
「返事だけなら前にも聞きました」
ミナが俺の目を見る。
「誰かが《待て》と言ったら?」
「待つ」
「《戻れ》と言ったら?」
「戻る」
「剣がまだ振れそうでも?」
「戻る」
ようやくミナが頷いた。
ダリオが俺の腰へ新しい火鎖を回す。
継ぎ足された鋼索は、訓練場の外まで伸びていた。
「切れたら二本目を撃つ。二本目も外れたら、リゼの帰還風へ乗れ」
「両方駄目なら?」
「俺が取りに行く」
「火で飛ぶのか」
「お前よりは上手に落ちてやる」
笑いかけた瞬間、空が青く明滅した。
アルガディアの咆哮が、王都の窓という窓を震わせる。
もう城壁のすぐ外だ。
◇
『残り二分』
中央塔から、作戦準備完了の光が上がった。
南西の貯水湖では、水の柱が一つずつ立ち始めている。
西塔の屋上で、ダリオが火槍を構える。
ミナは指揮室へ戻り、王都中の水術師と観測盤をつないだ。
ネーヴァが訓練場を走り、リゼの風を受けて空へ上がる。
傷ついた左翼は低い。
それでも、鉄色の竜はアルガディアへ顔を向けた。
俺とリゼは、中央塔の最上部に立っていた。
眼下には、誰もいない大通り。
正面には、雲を押し分ける蒼天竜。
左翼に刺さった最初の杭が、赤黒く光っている。
「怖い?」
リゼが聞いた。
「怖い」
「私も」
彼女は杖を握り直した。
「でも、戻す風までが私の魔法よ」
最初にネーヴァへ挑んだ日と同じ言葉だった。
あのときの俺は、剣を振るところまでしか考えていなかった。
今は違う。
三本の杭を外す。
核を壊す。
竜を湖へ落とす。
仲間と一緒に帰る。
そこまでが、俺たちの作戦だ。
「最後まで握っているのが、俺の魔法だ」
レイヴへ、最初の一回分だけ魔力を込める。
光は大きくならない。
短い刃の中を、静かに巡って帰ってくる。
『残り一分』
リゼの風が、塔の外へ一つ目の足場を作った。
俺は飛び出さない。
ダリオの火鎖が固定された音を聞く。
ミナから届く観測光が、左翼の杭を指す。
リゼが俺を見る。
「行ける?」
三人の準備を確かめる。
ネーヴァの声を聞く。
俺は頷いた。
「行ける」
風の足場へ、最初の一歩を踏み出した。




