第2話 消えない火
「どうやって消すんだ、これ」
剣に問いかけても、答えは返ってこなかった。
刃にまとわりついた赤い炎が、揺れただけだ。
魔法を消す方法なら習っている。
術式への魔力供給を止める。
組み上げた形を崩す。
残った魔力を空気へ逃がす。
どれも試した。
それでも、炎は消えなかった。
そもそも魔力を供給し続けていない。火を剣へ移したのは最初の一度だけで、そのあと一時間、魔力はほとんど減っていなかった。
「いつまで燃えるつもりだ」
もう一度尋ねる。
やはり返事はない。
夜の旧訓練場には、俺と燃える剣しかいなかった。
いっそ手を離してみようかと思ったが、床には乾いた藁が散らばっている。燃えたままの剣を放り出して火事にでもなれば、再試験より先に退学になる。
水場まで運ぶことも考えた。
だが、途中で寮の廊下を通らなければならない。夜中に燃える剣を抱えて歩く奨学生は、言い訳をする前に警備員へ取り押さえられるだろう。
せめて火の勢いを弱められないか。
俺は訓練場の中央へ移動した。
床は厚い石板で覆われている。炎の魔法を使う訓練も想定された場所だ。刃先を石へ当てる程度なら、燃え移るものはない。
「少しだけだからな」
誰に言い聞かせているのか、自分でも分からない。
両手で柄を握り、燃える剣の先を床へそっと押しつけた。
その瞬間。
刃を包んでいた炎が、吸い込まれるように消えた。
爆発はなかった。
火柱も上がらない。
ただ、足元のずっと下から、石臼をひきずるような低い音が響いた。
「え?」
一歩退く。
剣を当てた場所には、針でつけたほどの黒い点しかない。
何も起きなかったように見えた。
次の瞬間、黒い点を中心に細い亀裂が走った。
一本。
二本。
蜘蛛の巣のように広がった亀裂が石板の端まで届き、中央が拳ひとつ分だけ沈む。
沈んだ隙間から、熱い空気が吹き上がった。
表面はほとんど焦げていない。
けれど、割れた石の内側だけが赤黒く焼け、飴のように溶けている。
「……なんで中だけ」
剣を確かめる。
潰してあった刃先が欠け、そこから短い亀裂が伸びていた。剣に残っていた炎は、跡形もなく消えている。
俺の中に戻った感覚もなかった。
火の魔力は確かに、剣から床へ移った。
だが空気を焼かず、触れた石の内側だけを壊した。
「魔法が、飛んだ……のか?」
自分で言って、違うと思った。
剣先と石の間には、隙間がなかった。
飛んでいない。
触れたところへ移っただけだ。
十メートルどころか、距離は零のまま。
それでも、昨日までとは違う。
俺の魔法が初めて、自分以外のものへ届いた。
喜びかけて、足元の壊れた石板を見下ろす。
「……まずいな」
学院の備品を無断で使ったうえ、床まで壊した。
隠せる大きさではない。
俺は倉庫から立入禁止用の縄を持ってきて、沈んだ石板の周囲へ張った。紙に事情と名前を書いて支柱へ結び、欠けた訓練剣を持って寮へ戻る。
眠れたのは、朝の鐘が鳴る少し前だった。
◇
「旧訓練場の床を割った者は、前へ出ろ」
朝の剣術訓練は、その一言から始まった。
声の主は、剣術教官のガルド・フェインだ。
灰色が混じり始めた黒髪を短く切り、制服の上から革製の肩当てをつけている。体格は大きいが、左腕は古い負傷のため胸元の革帯で支えられていた。
片腕でも、学院の剣術教官を十年以上務めている。
右手一本で生徒の剣を弾き飛ばすところを、俺も何度も見ていた。
並んだ生徒たちの視線が動く。
誰が床を壊したのか探しているらしい。
俺は一歩前へ出た。
「俺です」
「名前は書いてあった」
「では、なぜ聞いたんですか」
「自分から出るか確かめた」
ガルド教官は俺の顔を見てから、右手に持っていた布包みを差し出した。
中には、昨夜置いてきた訓練剣が入っている。
「何をした」
「剣に火の魔法を込めました」
「火をまとわせたのではなく?」
「違いが分かりません」
「なら、見たまま話せ」
俺は昨夜のことを説明した。
火球を飛ばす代わりに、腕から柄へ流したこと。
一時間経っても炎が消えなかったこと。
剣先を床へ触れさせた瞬間、炎が消え、石板の内側だけが割れたこと。
ガルド教官は途中で口を挟まなかった。
俺が話し終えると、欠けた刃先を日に透かして眺める。
「床の修繕費については、あとで話す」
「はい」
「その前に、もう一度やれ」
「ここでですか?」
「まさか。これ以上床を割られたら、俺の訓練場所がなくなる」
教官は生徒たちへ自主鍛錬を命じ、俺を武具庫の奥へ連れていった。
◇
武具庫の検査室には、壊れた剣や盾を調べるための器具が並んでいる。
ガルド教官が作業台へ置いたのは、刃のない分厚い鉄剣だった。
斬るためのものではない。
魔法をまとわせた武器が、どれだけの負荷へ耐えられるか調べる試験具だ。
「これを使え」
「また火を込めればいいんですか」
「昨夜と同じ量から始めろ。何かおかしいと思ったら、すぐ手を離せ」
鉄剣を握る。
普通の長剣より、倍近く重い。
左の掌へ小さな炎を作り、それを腕の中へ戻す。右肩から肘、手首、柄へ流す。
昨夜より滑らかに通った。
鉄剣の表面を、赤い光が走る。
炎が刃のない鉄へまとわりついた。
「止めろ」
ガルド教官は鉄剣の周囲へ三枚の薄い水晶板を立てた。
魔法をまとわせた武器は、絶えず周囲へ魔力を漏らす。水晶板はその漏れを吸い取り、青く光る仕組みだ。
一秒。
二秒。
三秒。
水晶板は透明なままだった。
「もう一度、同じ火を込めろ」
「重ねるんですか?」
「できるならな」
左手へ二つ目の炎を作り、鉄剣へ流す。
炎はぶつからなかった。
最初の火へ重なるように、刃の内側へ沈んでいく。
水晶板は光らない。
「もう一度」
三つ目。
四つ目。
五つ目。
炎は大きくならず、色だけが赤から白へ近づいていく。
俺の手に熱は伝わらない。
周囲の空気も揺れていない。
ガルド教官の顔から、いつもの険しさとは違うものが消えていった。
疑いだ。
「まだ入るか」
「たぶん」
「続けろ」
六つ目。
七つ目。
八つ目。
鉄剣が低く鳴り始めた。
それでも三枚の水晶板は、ひとかけらの魔力も吸っていない。
「まだ入るか」
「はい」
九つ目。
十。
十一。
十二の炎を重ねたところで、鉄剣の音が一段高くなった。
「そこまでだ」
ガルド教官が作業台の奥から、丸い盤を引き出した。
中心に黒い吸収石が埋め込まれ、外周には一から十までの目盛りが刻まれている。
「接触式の吸収計だ。剣先を中心へ当てろ」
「また壊れませんか」
「今度は壊すための道具だ。ただし、剣は折るな。手も離すな」
言われたとおり、鉄剣の先を黒い石へ触れさせる。
白くなっていた炎が、一瞬で吸収石へ流れ込んだ。
盤の針が跳ねる。
一。
二。
三。
勢いは止まらない。
五を越え、八を越え、十の目盛りへぶつかる。
それでも針は戻らず、金属の留め具を押して震え続けた。
吸収石から、警告を示す赤い光が上がる。
「教官、これは」
「初級生が武器へ維持できる魔力を一とする。十で、この器具の測定上限だ」
ガルド教官は、透明なままの水晶板を一枚持ち上げた。
「お前は、その十二倍分を剣へ入れた。普通なら込める途中で半分以上が空気へ漏れる。残った分も、数秒でこの水晶が吸う」
水晶板を作業台へ戻す。
「だが、一滴も光っていない」
検査室に、吸収計の警告音だけが響く。
昨日の試験で、俺の飛距離は零だった。
今も零だ。
それなのに、零の場所に、測定上限を超える魔力が残っていた。
ガルド教官が俺を見る。
「シオン。午後の授業は出なくていい」
「床の修繕ですか?」
「それはあとだ」
教官の口元が、ほんの少しだけ上がった。
「お前の零を、別の測り方で調べる」




