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第1話 飛距離、零

 炎は、俺の指先から一歩も進まなかった。


 掌の上で生まれた赤い火球は、林檎ほどの大きさまで膨らんだ。


 そこまでは、うまくいった。


 熱もある。形も崩れていない。魔力の量だって、試験用の測定器が青い光で保証してくれている。


 あとは十メートル先の標的へ飛ばすだけだ。


「放て」


 試験官の声に合わせて、俺は右手を突き出した。


「行け!」


 火球が掌を離れる。


 ――はずだった。


 赤い炎は指先を包み、細かな火の粉になって散った。火の粉は前へ飛ばず、俺の手の甲を撫でるように一周して消える。


 十メートル先に立つ白い標的は、焦げ目ひとつつかないままだ。


 測定器から、乾いた音が鳴った。


 訓練場の脇に掲げられた記録板へ、数字が浮かぶ。


『飛距離 零』


『命中 測定不能』


『実技点 零』


「……シオン・レイス。もう一度だけ認める」


 試験官は記録板を見たまま告げた。


 責めるような声ではなかった。


 それが、かえってきつい。


「属性の変更は?」


「認める。得意なもので構わない」


「では、風で」


 俺は息を整え、右手を開いた。


 炎が駄目でも、風なら余計な重さがない。初等術式の風刃は、入学して最初の月に習う魔法だ。


 魔力を細く伸ばす。


 掌の上で風が回り、半月形の刃を作った。


 形は教本の挿絵と変わらない。


 問題は、ここからだ。


「行け」


 腕を振る。


 風刃は指先から離れず、手首を一周した。制服の袖だけがばたばたとはためき、前方の草は一本も揺れない。


 また、乾いた音がする。


『飛距離 零』


 数字は変わらなかった。


「試験終了。下がりなさい」


「はい」


 返事をして、測定線から退く。


 見学席にいる生徒たちは笑わなかった。


 一年目なら、何人かは笑った。


 二年目には、気まずそうに目をそらされた。


 三年目ともなれば、誰も驚かない。


 シオン・レイスの魔法は飛ばない。


 それはもう、学院では天気より確かな話になっていた。


「次。リゼ・アルヴェイン」


「はい」


 名前を呼ばれた少女が、俺と入れ替わりに測定線へ進む。


 淡い金髪を背中で結んだリゼは、杖を持っていなかった。彼女の風魔法は、指先だけで十分な精度を出せる。


 俺の横を通り過ぎる瞬間、青い目が右手へ向けられた。


「痛くないの?」


「何が?」


「今の風。手に戻っていたから」


「いつものことだ。怪我はない」


「そう」


 短く答え、リゼは測定線に立った。


 試験官が開始を告げる。


 彼女が人差し指を上げると、周囲の空気が細く絞られた。


 風の針が放たれる。


 十メートルの標的を貫き、二十メートル、三十メートルと並ぶ板の中心を抜け、五十メートル先の最終標的へ突き刺さった。


 遅れて、五枚の板へ開いた穴から風が鳴る。


『飛距離 五十』


『命中 最優』


 見学席から歓声が上がった。


 これが、魔法だ。


 作り出した力を、自分の身体から切り離して必要な場所へ届ける。


 俺にできないのは、いつだって最後の一歩だけだった。


     ◇


 全員の試験が終わると、記録板に順位が表示された。


 一位、リゼ・アルヴェイン。


 二位、ダリオ・ベルン。


 そして一番下には、得点の代わりに赤い横線を引かれた俺の名前がある。


 三年連続の実技最下位。


 分かっていた結果でも、胸の奥は重くなった。


「シオン・レイス」


 試験官に呼ばれ、記録机の前へ向かう。


 差し出されたのは、一枚の書類だった。


『奨学生特別再試験通知』


「魔力量、術式構築、筆記成績には問題がない。しかし、実技必修項目である放出距離を満たしていない」


「はい」


「三日後、野外訓練場で特別再試験を行う。移動標的に対する放出魔法の命中が課題だ」


 書類の下に記された規則は、読むまでもなく覚えている。


 再試験でも基準に届かなかった場合、奨学資格を取り消す。


 授業料を納められなければ、在籍資格も失う。


 北境の鍛冶屋に、王都の学院へ通う金などない。母が何年働いても、ひと月分にさえ届かないだろう。


 三日後が、最後だ。


「何か質問は?」


「標的までの最低距離は?」


「十メートル。規定どおりだ」


「五メートルに変更することは」


「できない」


「では、一メートルなら」


 試験官が初めて俺を見た。


「一メートルは、魔法を飛ばしたとは認められない」


「……承知しました」


 書類を受け取り、一礼する。


 規則に腹を立てても、火球が飛ぶわけではない。


 残り三日で、十メートル。


 今日までの三年間で一歩も進まなかったものを、だ。


「まだ受けるつもりか」


 訓練場を出たところで、背後から声をかけられた。


 ダリオ・ベルンが壁にもたれている。短く整えた赤茶色の髪と、姿勢のよさは、遠目でもよく目立つ。


「通知を受け取ったからな」


「そういう意味ではない」


 ダリオは腕を組み、俺の腰にある木剣を見た。


「朝の剣術訓練を見たことがある。踏み込みも速い。剣士なら、少なくとも最下位ではない」


「褒めてくれてるのか?」


「事実を言っている」


 いかにもダリオらしい答えだった。


「魔術師にこだわって退学になるより、北境の守備隊で剣を取る道もあるだろう」


「剣が嫌いなわけじゃない。親の仕事を手伝って、子どものころから握ってきた」


「なら――」


「でも、剣は空へ届かない」


 ダリオが口を閉じた。


 俺の故郷は、竜嶺から南へ延びる飛行路の真下にある。


 竜が来るたび、村人は警鐘を鳴らして地下蔵へ逃げた。守備隊の剣士たちも、屋根より高い場所を飛ぶ魔獣を見上げることしかできなかった。


 北境の結界塔や対空部隊へ配属されるには、王国公認の魔術師資格が要る。


 だから、ここへ来た。


「飛ぶ相手から村を守りたい。そのためには魔術師になるしかない」


「覚悟は採点されないぞ」


「知ってる」


「なら、三日後は魔法を見せろ」


 ダリオはそれだけ言って歩き去った。


 嫌味ではない。


 俺が剣を振れることも、三年間諦めなかったことも認めたうえで、それでは試験に通らないと言っている。


 正しい。


 正しいからこそ、言い返せなかった。


     ◇


 夜。


 消灯の鐘が鳴ったあと、俺は旧訓練場にいた。


 昼間でも人の少ない場所だ。石壁には古い剣傷が残り、隅に置かれた標的は藁が半分抜けている。ここなら、何度失敗しても誰の邪魔にもならない。


 俺は木剣ではなく、刃を潰した訓練剣を握っていた。


 火球を百回作った。


 百回とも、指先から離れなかった。


 風刃も試した。


 結果は同じだ。


 やがて、昼間の試験官の言葉が頭に浮かんだ。


『一メートルは、魔法を飛ばしたとは認められない』


 飛ばす。


 身体から切り離す。


 それができなければ、魔法ではない。


「切り離せないなら……」


 右手の剣を見る。


 鍛冶場で母を手伝っていたころ、鉄を打つ槌は腕の先だと教わった。握り方が悪ければ力は逃げる。正しく握れば、肩から指、柄から鉄へ、ひと続きに力が通る。


 剣も同じだ。


 手の先にあるが、握っている間は身体の一部になる。


 それなら、魔力も通るのではないか。


 俺は左手の上に小さな火を作った。


 飛ばそうとせず、腕の中へ戻す。


 いつもなら、それで消える。


 今度は戻ってきた熱を右肩へ流し、肘から手首、握った柄へ押し出した。


 一度目は何も起こらなかった。


 二度目は、鍔がわずかに赤くなった。


 三度目。


 柄の先から、細い赤光が刃を走った。


 潰された刃の上に、炎がともる。


「……できた」


 思わず声が漏れた。


 剣を横へ振る。


 炎は飛んでいかない。


 刃へ絡みついたまま、赤い弧を描く。


 縦に振っても、突きを放っても同じだった。火の粉ひとつ、剣から離れない。


 これでは十メートル先の標的を倒せない。


 試験には使えない。


 それでも、初めて起きた変化だった。


 俺は剣を握ったまま、もう一度振った。


 百回。


 二百回。


 腕から汗が落ち、肩が重くなっても、炎は刃の上に残っている。


 旧訓練場の時計が一時間を告げた。


 普通の火なら、とっくに消えている。


 魔法の炎なら、維持するために魔力を使い続けるはずだ。


 けれど、俺の魔力はほとんど減っていない。


 剣にまとわりついた炎も、最初と同じ明るさで燃えている。


「どうやって消すんだ、これ」


 答える者はいない。


 赤い炎だけが、夜の訓練場で静かに揺れていた。

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