第24話 守るための犠牲
「美しいだろう」
ヴァイス教授は、雲の中のアルガディアを見上げていた。
白い研究衣にも、銀縁の外套にも乱れはない。
学院の講義室で会ったときと、何も変わらない姿だった。
「結界核を元へ戻してください」
リゼが杖を向ける。
「誘導装置も止める。今なら、まだ古竜を竜嶺へ帰せるかもしれない」
「帰す?」
教授が穏やかに聞き返した。
「目覚めた脅威を、もう一度見えない場所へ隠すのか。それでは何も変わらない」
塔が大きく揺れた。
雲の中でアルガディアが身をよじり、低い咆哮を上げる。
誘導装置から放たれる振動が強くなった。
あの音は、竜を呼んでいるのではない。
痛みを与え、結界核のある場所へ追い立てている。
「ネーヴァにも、同じことをしたんですね」
ミナが防水布から現地試験記録を出す。
「傷に残っていた樹脂。痛みを増幅する術式と、第一塔へ誘導する術式。どちらも第三研究室の配合でした」
「優れた分析だ、フェル君」
ヴァイス教授は否定しなかった。
「鉄翼竜は、北の調査隊が捕獲した若い個体だった。傷を治し、鱗の性質を調べたあと、私が二本の誘竜針を打った」
ダリオの火槍から、小さな火花が散る。
「教授が、自分で?」
「人任せにできる実験ではなかった。痛みの強さも、誘導先も、正確に調整する必要があった」
ネーヴァが教授を見ただけで怯えた理由。
あの金色の目は、白い研究衣ではなく、針を刺した本人を覚えていた。
「訓練場を襲わせたのも、あなたか」
俺が尋ねる。
「襲わせた、という表現は正確ではない。竜が第一塔の魔力を追えば、その延長上に学院の演習用魔導砲があるよう誘導した」
「同じことだ」
「違う。学院には王国最高水準の防壁と術者がいる。私は竜が観客席へ到達する前に、新型魔導砲で撃墜する計画だった」
「でも、砲撃は鱗に散らされた」
リゼが言う。
「シオンがいなければ、生徒が死んでいたわ」
「実証に不確定要素はつきものだ。だからこそ、最も対応力の高い学院を選んだ」
教授の声は変わらない。
失敗した実験の条件を説明するような口調だった。
「黒い針を消したのも、ネーヴァを処分しようとしたのも、保管棟を襲わせたのも、失敗を隠すためですか」
「計画の全容が整う前に、未熟な証拠だけが広がるのを防いだ。誤解によって研究が潰されれば、失われるのは私の地位ではない。王国の未来だ」
それが、ヴァイス教授の答えだった。
◇
「二十一年前、北境で蒼角竜が目覚めた」
教授が千条砲の台座へ手を置く。
「当時の第五結界塔は、予算削減で魔導砲の半数が整備されていなかった。竜が村へ到達するまでに、王都の出撃許可は来なかった」
砲身の表面へ、古い戦闘記録が浮かぶ。
焼けた村。
崩れた塔。
担架へ並べられた人々。
「死者三百十二名。私は救援部隊の研究員として、朝になってから到着した」
ヴァイス教授が千条砲を作り続けた理由。
遠くから届く力にこだわった理由。
「あのとき、十分な射程と数があれば、竜は村へ届かなかった」
千本の砲身が、わずかに角度を変える。
「それから二十一年、大規模な竜害は起きていない。評議会は平和になったと思い込み、来年度は結界研究費を半減する。三つの塔が無人化され、魔導砲の核は都市の照明へ転用される予定だ」
「だから、自分で竜害を起こしたのか」
ダリオの声が震えている。
「報告書は出した。劣化した結界の記録も、想定被害も、何年も提出した。読まれなかった。人は、目の前にない危機へ金を払わない」
教授がアルガディアを指す。
「だが、本物の古竜を千条砲が撃破すれば、誰も脅威を忘れない。五本の結界塔すべてに配備できる。今後百年で救われる命は、数万を下らない」
ミナが現地試験記録を掲げる。
「そのために、灰尾村の四十三人を死なせてもよかったんですか」
「警報と避難が予定どおり機能すれば、死者は出ない計算だった」
「機能しなかった場合は、許容範囲と書いてあります」
「四十三と、数万。防衛責任者なら比較を避けることはできない」
「あの村には五十四人いました」
俺は言った。
「怪我をした女の子も、娘を捜して煙を吸った母親もいた。鐘楼で子どもを背負っていた老人もいた」
「感情で数字は変わらない」
「数字にしたから、見なくて済んだだけだ」
ヴァイス教授の目が俺へ向く。
「守るためだと言いながら、教授は目の前の誰も見ていない」
訓練場にいた生徒も。
針を刺されたネーヴァも。
灰尾村で震えていた人たちも。
「未来の命を守る研究が必要なのは分かります。でも、そのために今いる人を、勝手に犠牲へ選んでいいはずがない」
「幼い理想論だ」
「一人も犠牲にしないと言ってるんじゃない。少なくとも、犠牲にする前に助ける方法を探すべきだったと言ってる」
「私は探した。二十一年間だ」
「一人で決めた方法だけを」
リゼたちが、俺の隣へ並ぶ。
「届かないなら、誰かに道を作ってもらえばいい。守れない場所があるなら、そこにいる人へ逃げ道を聞けばいい。俺たちはそうやって、ここまで来た」
◇
ヴァイス教授の視線が、俺のレイヴへ落ちる。
「その剣で、王国を守れると?」
「目の前にいる人なら守る」
「零距離まで近づかなければ何もできない。希少な《閉環》の術者、鉄翼竜の鱗を使った特注剣、首席級の風術師、火槍、水の治癒術。すべて揃って、ようやく一撃だ」
教授は千条砲を振り返る。
「再現できない力は、兵器ではない。君一人の英雄譚で国境は守れない」
「一人じゃない」
「だからなお悪い。四人を一か所へ集めなければ成立しない力と、五本の塔へ同じ設計で配備できる千条砲。どちらが多くを救うかは明らかだ」
技術の話だけなら、反論は難しい。
俺の体質は、誰にでも教えられるものではない。
レイヴも同じ剣を量産できない。
けれど、ヴァイス教授は一つだけ間違えている。
「俺たちは兵器じゃない」
ダリオが火槍を構えた。
「人だ。間違えたら止め合う。教授が捨てた数字を、拾いに行ける」
「ベルン。私が与えた火槍で、私へ刃向かうのか」
「この火槍で助けた人たちから、俺はもう十分に答えをもらった」
ヴァイス教授は、初めて寂しそうな顔をした。
それも一瞬だった。
「ならば、実証結果で決めよう」
教授が指を鳴らす。
床と壁から、無数の術具がせり上がった。
赤い火球を抱く砲口。
青白い雷をまとう槍。
すべてが離れた場所から、俺たちへ狙いを定める。
「千の魔法と、届かなければゼロの剣」
ヴァイス教授の背後で、千条砲の充填灯が一つずつ点った。
「どちらが王国を守るに値するか、証明しよう」




