第22話 風の足場
「三秒」
リゼが洞窟の砂地へ数字を書く。
「今の私が、圧縮した風を同じ場所へ留められる限界よ」
退避洞の入口は、飛竜が通れない幅まで岩で塞いである。
その隙間から入り込む風が、床の砂を複雑に舞い上げていた。
リゼは一刻近く、その動きを見続けている。
「一瞬だった風を、三秒まで伸ばしたのか?」
「壁にぶつかる二つの風を、反対側から押さえたの。飛ばす風じゃなく、動かさない風ね」
彼女が手を上げる。
俺の膝ほどの高さで、砂粒が円盤状に広がった。
下から風を吹き上げているようには見えない。
薄い空気を何層も重ね、靴一足分だけ固くした足場だ。
「一、二、三」
リゼが指を閉じる。
砂の円盤は形を失い、床へ落ちた。
「三秒間だけなら、これに乗れる」
「乗るって、俺が?」
「ほかに空へ剣を持っていきたい人がいる?」
ダリオが火槍を上げかけた。
「あなたは炎を飛ばせるでしょう」
「冗談だ」
ミナは毛布へくるまり、岩壁に背を預けている。
左肩の傷は治療水で塞がったが、腕は布で胸元へ固定していた。
「私は賛成できません」
「ミナ」
「安全策を全部決めるまでは、です」
右手だけで記録板を持ち上げる。
「落下防止の火鎖。足場は最初、地面から半歩以内。シオン君が《行ける》を待つこと。それから、一度失敗したら原因を確認するまで次を試さない」
「全部守る」
「さっきも聞きました」
「今度は守る」
ミナはしばらく俺を見てから、記録板へ条件を書き込んだ。
「では、治療担当として許可します。私は見ているだけですからね」
◇
洞窟の奥に、二段の岩棚があった。
地面から一段目まで半歩。
一段目から二段目まで、一歩半。
まずは風の足場を踏み、二段目へ着地する。
ダリオが火鎖の鉄鉤を俺の剣帯へかけた。
今度は鋼索の端も、洞窟の太い石柱へ巻いてある。
「固定した。落ちても床まで届かない」
「行ける」
俺は答えた。
「まだよ」
リゼに止められる。
「足場の位置を目で探さないで」
「見ないで踏めるか?」
「見つけてから足を出したら、一秒以上遅れる。乱気流の中では、視線を下げた瞬間に敵も見失うわ」
リゼは俺の右足の前を指した。
「私が位置を言う。右へ半歩、前へ一歩。《踏んで》で足を出して」
「何もないところへ?」
「私を信じて」
簡単な言葉だった。
けれど、さっきまでの俺は、仲間の《待て》より自分の判断を信じた。
今度は逆だ。
風の足場が見えなくても、リゼの声を信じる。
「分かった」
前を向く。
二段目の岩棚だけを見る。
「作るわ」
足元で空気が低く鳴る。
「右へ半歩。前へ一歩――踏んで!」
跳ぶ。
右足を出した場所に、硬い感触はなかった。
「え?」
身体が沈み、火鎖が腰へ食い込む。
床から拳一つ分の高さで止まった。
「右へ行きすぎ!」
「リゼの右かと思った!」
「あなたの右に決まってるでしょう!」
「決まってはいませんよ」
ミナが記録板へ書き加える。
「次から《シオン君の右》と明示しましょう」
ダリオが鋼索を巻きながら、顔を背けている。
「笑うな」
「笑っていない」
「肩が揺れてるぞ」
◇
一度目の失敗は、左右の基準を決めていなかったこと。
二度目は、それを直して試した。
「シオンの右へ半歩。前へ一歩。踏んで!」
言われた場所へ右足を出す。
今度は、靴底へ確かな反発が返った。
石でも木でもない。
強い風に押されているのに、足場そのものは動かない。
一。
身体を持ち上げる。
二。
左足で風を蹴る。
三になる前に、二段目の岩棚へ着地した。
「届いた」
振り返る。
足場はもう消え、砂だけが舞っていた。
リゼが笑う。
「二秒と少し。余裕は半秒ね」
「十分だ」
「本番でその台詞を言った人は、だいたい落ちます」
ミナから注意が飛んだ。
「十分じゃない。もっと早く踏み抜く」
風の位置は俺には分からない。
分からないまま、迷わず足を出す。
俺一人では成立しない技だった。
◇
三度目は、洞窟の外だった。
傷つけた飛竜を追い払えなければ、峡谷を進めない。
群れは今も岩壁の上を旋回している。
俺たちは入口の岩を人一人分だけ除けた。
ミナと馬車は洞窟に残る。
ネーヴァが入口に立ち、翼を広げず低く唸った。
「狙うのは群れの先頭だけ」
リゼが空を見る。
「傷つけすぎないで。ここはあの子たちの縄張りでもある」
「角へ一撃。当てたらすぐ戻る」
ダリオが火鎖を俺の腰へ固定する。
「今度は端を二重に留めた。勝手に跳んでも外れない」
「勝手には跳ばない」
「それを確認している」
火槍から細い炎が上がった。
ダリオが谷の中央へ放つ。
先頭の岩羽飛竜が炎を避け、岩棚の近くまで高度を下げる。
「まだ」
レイヴを抜く。
飛竜が旋回し、こちらへ頭を向けた。
「待て」
翼が風を切る。
石礫を吐くため、口が開く。
「行ける!」
リゼの声で、岩棚を蹴った。
「シオンの左前――踏んで!」
足場を見ない。
空中へ左足を出す。
硬い風が、確かにそこにあった。
一。
膝を伸ばす。
二。
風を蹴り、飛竜の頭上へ跳ぶ。
レイヴを両手で振り下ろした。
刃は使わない。
平らな腹が、岩のような角を叩く。
甲高い音が峡谷へ響いた。
角の先がわずかに欠ける。
驚いた飛竜が翼を乱し、谷の反対側へ逃れた。
俺の身体は再び空へ投げ出される。
「戻れ!」
リゼの風が背中を押す。
火鎖が張り、ダリオが鋼索を巻き取る。
岩棚へ両足で着地した。
群れの先頭は、こちらを一度振り返った。
角を打たれたことと、ネーヴァの低い咆哮で戦意を失ったらしい。
鳴き声を上げ、竜嶺の反対側へ飛び去る。
残りの六頭も後を追った。
「全員、無事か?」
俺から確認する。
「行ける」
ダリオが答えた。
「私は怪我人なので、行けません」
洞窟の奥からミナが言う。
「でも、今の連携は合格です」
最後に、リゼを見る。
「行けるわ」
彼女が近づき、俺の左足を指した。
「足場、見なかったでしょう」
「見えなくても、そこにあると分かった」
「私の風を信じたから?」
「リゼを信じたからだ」
言ってから、少し近すぎる距離に気づいた。
リゼも一瞬だけ黙る。
峡谷を抜ける風が、彼女の銀髪を揺らした。
「あなたを飛ばすのではなく、二人で道を作る」
リゼは空になった場所を見上げる。
「三秒しかないけれど、今はそれで十分よ」
峡谷の先では、雨雲を貫く第一結界塔の影が見えていた。




