第15話 飛ぶ魔法の弱点
最初に異変を見つけたのは、ミナだった。
「今の魔力、消えていません」
隔離厩舎の隣にある治療用訓練室。
厚い石壁に囲まれた中央で、ネーヴァが身体を伏せている。
左翼は固定したまま。実験に使うのは、右肩から自然に剥がれた小さな鱗だけだ。
鱗は測定台の上に置かれ、その下には魔力の量と流れを記録する青い砂が敷かれていた。
「もう一度やるわ」
リゼが人差し指を向ける。
髪を揺らすより弱い風が、鱗へ飛んだ。
触れた瞬間、風は四方へ散る。
青い砂の上に細い線が広がり、途中で消えた。
「やっぱり、届かない」
「表だけを見れば、そう見えます」
ミナは測定台の下を指した。
中央の砂が、ごく薄く光っている。
「送った魔力は百のうち八十二が周囲へ散りました。でも、残りの十八は鱗の内側へ入っています」
「弾いたんじゃないのか?」
俺が尋ねる。
「散らしながら、一部を取り込んだんです」
ネーヴァの右肩を見る。
黒銀の鱗は一枚ずつ分かれているように見えて、その下では細い筋でつながっている。
ロッカさんがレイヴを作ったときにも言っていた。
外から来る魔力は散らす。
身体の内側から来る魔力は、翼全体へ広げる。
「強く撃てば、取り込む量も増えるのか」
「確かめる」
ダリオが火槍を構えた。
「待ってください。威力は一刻みずつです」
「分かっている。竜を焼くための実験じゃない」
穂先に、豆粒ほどの火が灯る。
ダリオが放った火は鱗へ当たり、赤い粉のように散った。
測定台の砂が光る。
一回目より強い。
火の熱まで、鱗の内側へ引き込まれていた。
「第二刻、同じ結果です。吸収量は十二。総量を二倍にしたのに、三倍近く入っています」
「もう一段上げる」
ダリオの火が少し大きくなる。
そのとき、伏せていたネーヴァが目を開いた。
金色の瞳が測定台へ向く。
「中止」
俺が言うのと同時に、ダリオは火を消した。
ネーヴァの喉から低い音が漏れる。
怒ってはいない。
だが、測定台の鱗へ鼻先を近づけ、取り返すように前脚で引き寄せた。
「ここまでね」
リゼが記録板へ線を引く。
「小さな鱗一枚でこれなら、全身へ一斉に撃ち込んだ場合は……」
「散らした魔力が、隣の鱗へ届く」
ダリオが火槍を下ろした。
「隣で散れば、さらにその隣が受ける。全身の鱗がつながっているなら、撃つ数を増やすほど取り込まれる魔力も増える」
空を覆うほどの魔法を、一斉に放つ。
竜を倒すためなら、誰もが正しいと思う方法だ。
けれど高位の竜を相手にすれば、その正しさが逆になる。
「魔導砲で撃ち続けたら、倒すどころか元気にするかもしれないのか」
「今の実験だけでは断定できません」
ミナが慎重に答えた。
「ただ、魔力を蓄える器官が鱗の下にあるなら、回復や反撃に使われる危険があります」
俺はレイヴを抜いた。
ネーヴァがこちらを見る。
「最後に、俺の魔力を試していいか?」
返事は分からない。
剣を見ても身を引かなかったので、刃ではなく平らな腹を鱗へ触れさせる。
流すのは、指先を温めるほどの魔力だけ。
レイヴから鱗へ、細い道がつながった。
散らない。
俺が流した分だけ、触れた場所の奥へまっすぐ入る。
すぐに止めて、剣を離した。
「測定値は?」
「外へ散った量は、ほぼゼロです。鱗の内側へ入った量も、シオン君が流した分と同じ」
「吸われてもいない」
俺はレイヴを鞘へ戻した。
「触れている間だけ、俺とネーヴァの間に外側がなくなるんだ」
飛んできた魔法を防ぐ鱗も、触れた魔法までは防げない。
それは俺だけの強みではなかった。
飛ばすことを最善としてきた魔術そのものに、届かない場所がある。
◇
「不安を煽るには、ずいぶん都合のよい仮説だ」
実験記録を読み終えたヴァイス教授は、紙束を机へ置いた。
夕刻、俺たちは結界研究棟の審査室へ呼ばれていた。
壁には、歴代の魔導砲の設計図が並んでいる。
「仮説ではありますが、測定値は記録のとおりです」
ミナが答える。
「若齢の鉄翼竜から剥がれた鱗一枚。術者は学生三名。試行はわずか三回。これを高位竜全体へ当てはめるのは、研究とは呼べない」
「だから、追加の実験を申請しています」
リゼが言う。
「認められない」
ヴァイス教授は迷わなかった。
「本記録は対竜防衛に混乱を招く。結界研究主任の権限で機密指定し、保管棟へ封印する」
「間違っているなら、再現実験をすれば分かるはずです」
ダリオの声は、いつもより低かった。
「ベルン。王国が百年かけて築いた遠距離魔術の体系を、三度の測定で疑うつもりか」
「疑うから調べる。それが教授の教えだったはずです」
一瞬、部屋が静かになった。
ヴァイス教授は椅子から立つ。
「危険なのは仮説だけではない。飛来魔法を吸収する可能性がある以上、あの竜を学院内へ置き続けることはできない」
「翼が治れば、北へ帰せます」
「帰る保証はない」
「ネーヴァは人を襲っていません」
「今は、だ」
教授は机上の鐘を鳴らした。
入ってきた書記へ、一枚の命令書を渡す。
「緊急竜害規定に基づき、明日の日没をもって鉄翼竜を処分する。鱗と魔力器官は防衛研究のため保存せよ」
「待ってください!」
机へ手をついた俺の前へ、二人の警備教師が立った。
「治療中の生き物を、危険かもしれないというだけで殺すんですか」
「君たちの報告が、その危険を示したのだよ」
「報告は未熟な仮説ではなかったのか?」
ダリオが尋ねた。
ヴァイス教授の目が細くなる。
「防衛では、最悪を考える」
「研究では無視して、防衛では使うのか」
「言葉を慎みなさい、ベルン」
ダリオは黙った。
けれど、頭は下げなかった。
俺たちが退出する前に、実験記録は灰色の封印箱へ入れられた。
箱には保管棟地下二階の札がつき、二重の学院印が押される。
ヴァイス教授は、そのすべてを自分の目で確かめていた。
◇
研究棟を出ると、空はもう暗かった。
「教授は、間違った結果を嫌う人じゃなかった」
ダリオが階段の途中で立ち止まる。
「自分の火槍が何度失敗しても、原因を調べる金を出してくれた。飛距離を伸ばせ、もっと遠くから皆を守れるようになれって」
握った拳が震えている。
「だから尊敬していた」
過去形だった。
「まだ、教授がネーヴァへ針を刺した証拠はないわ」
リゼが言う。
「分かっている」
ダリオは顔を上げた。
「だが、結果を見る前に結論を決めた証拠なら、今見た」
明日の日没まで。
残された時間は、一日もない。
その夜、俺たちはネーヴァを生かすために動き始めた。




