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第14話 竜の声

 鉄翼竜は、拘束鎖の中で立ち上がっていた。


 隔離厩舎の扉を開けると、金色の目が一斉にこちらへ向く。


 治療科の教師たちは壁際まで下がり、水と土の防壁を重ねていた。


「急に目を開けて、身体を起こしたんです」


 俺たちを呼びに来た生徒が言う。


「暴れてはいません。でも、餌にも水にも反応しません」


 竜の左翼には、まだ固定具が巻かれている。


 無理に動けば、俺が止めた魔力節をさらに傷めるかもしれない。


「俺が近づきます」


「一人では駄目よ」


 リゼがすぐ隣へ立った。


 ダリオは火鎖の鉄鉤を俺の剣帯へかけ、ミナは足元へ水膜を広げる。


 訓練で決めた役割が、もう言われなくても動いていた。


「行ける」


 三人の返事を聞き、ゆっくり竜へ近づく。


 鉄翼竜が頭を下げた。


 巨大な顎が目の前へ来る。


 噛みつく気配はない。


 鼻先が腰のレイヴへ触れ、黒い鞘の匂いを嗅いだ。


「鱗は、ここにある」


 鞘を軽く叩く。


「勝手に全部使ったわけじゃない。残った分も大事にしてる」


 竜が低く喉を鳴らした。


 音というより、空気と床を一緒に震わせる振動だった。


 恐怖や怒りは感じない。


 鉄翼竜はもう一度喉を鳴らし、今度は俺の胸へ鼻先を押しつけた。


「重い……」


 両足で踏ん張る。


「嫌われてはいないようですね」


 ミナが水膜の向こうで笑った。


「治療記録へ名前が必要です。《鉄翼竜若齢個体》では呼びにくくて」


「名前か」


 竜は再び、二つに分かれた低い音を出した。


 最初は長く、次は短い。


 リゼが目を閉じ、竜の周囲へ薄い風を巡らせる。


「ネー……ヴァ……」


「何?」


「風に乗せると、そう聞こえるの。名前かどうかは分からないけれど」


「ネーヴァ」


 呼びかけてみる。


 鉄翼竜の金色の目が細くなった。


「気に入ったみたいです」


「違うと言っている可能性もあるわ」


「そのときは、元気になってから教えてもらおう」


 治療記録の《鉄翼竜若齢個体》の横へ、ミナが《ネーヴァ》と書き加えた。


     ◇


「さっきの振動、もう一度調べたい」


 リゼがネーヴァの前へ立つ。


「声が聞こえたのか?」


「言葉ではないわ。人の耳には低すぎる音が、風を揺らしているの」


 彼女は竜の喉元から窓まで、細い風の道を作った。


「話せるなら、どこから来たのか教えて」


 ネーヴァが首を傾ける。


 質問が通じているかは分からない。


 リゼが窓を開け、北を指した。


 竜の鼻先が同じ方向へ向く。


 低い振動が、風の道を走った。


「今の音、さっきより長い」


 リゼが観測板へ線を引く。


「北を見るたび、同じ穏やかな振動になる。巣か、帰る場所を示しているのかもしれない」


 次に、ミナが首の傷へ治療水を触れさせた。


 ネーヴァの喉から、短く途切れた音が漏れる。


 左翼が動き、拘束鎖が鳴った。


「これは痛み」


 リゼの表情が曇る。


 鉄翼竜が訓練場へ来たときの姿を思い出す。


 何度も首を引っかき、空中で進む方向を変えていた。


「北の巣にいた。そこで針を刺され、痛みから逃げるように飛ばされた」


「断定はできないわ」


 リゼは首を横に振った。


「でも、北、帰る場所、痛み。そこまでは同じ振動が繰り返されている」


 十分だった。


 ネーヴァは王都を襲うため、自分から竜嶺を出たのではない。


 誰かに巣から追い立てられた。


 そのとき、隔離厩舎の扉が開いた。


「目覚めたそうだね」


 白い研究衣に銀縁の外套。


 ヴァイス教授だった。


「第一結界塔の点検から、先ほど戻ったところだ。状態を確認させてもらおう」


 教授が一歩、厩舎へ入る。


 ネーヴァの様子が変わった。


 金色の瞳が大きく開く。


 身体を壁へ押しつけ、教授から逃げるように後退した。


 拘束鎖が激しく鳴る。


「ネーヴァ!」


 左翼の固定具がずれかけている。


 俺は教授とネーヴァの間へ入った。


「待ってください。傷が開きます」


「鎮静術を使えばいい」


 ヴァイス教授が杖を上げる。


「待て!」


 リゼの声が飛ぶ。


 俺はレイヴへ手を置いたが、抜かなかった。


 ダリオが教授の前へ進む。


「教授、今は下がってください」


「ベルン。君まで私を危険人物のように扱うのか」


 ヴァイス教授の声には、怒りより落胆が混じっていた。


 ダリオの肩がわずかに揺れる。


「そういう意味ではありません。竜が傷を悪化させれば、調査もできなくなると言っているだけです」


「……理にかなっている」


 教授は杖を下ろし、厩舎の外へ一歩戻った。


 それだけで、ネーヴァの暴れ方が少し弱くなる。


「竜は捕獲や治療に使う器具を覚えている。研究衣や杖へ反応したのだろう」


「治療科の教師には、反応しませんでした」


 ミナが言う。


「私たちも杖を使っています」


「個体差はある。恐怖に規則性を求めすぎないことだ」


 ヴァイス教授はネーヴァを見た。


 あの日、黒い針へ向けていたのと同じ目だった。


「落ち着いたら、鱗の性質を調べる必要がある。外からの魔法を散らす仕組みが分かれば、対竜兵器の改善に役立つ」


「まずは治療が先です」


 ミナが答える。


「もちろんだとも」


 教授は穏やかに笑い、厩舎を離れた。


 足音が聞こえなくなるまで、ネーヴァは扉から目を離さなかった。


「ダリオ」


 俺が呼ぶと、彼は扉を見たまま答えた。


「カルダン教授は、俺の火槍研究の後援者だ」


「知っていたのか。ネーヴァのこと」


「知らない」


 短い返事だった。


「だから、調べる」


     ◇


 その日の夕方、ミナが治療室へ俺たちを集めた。


 机の上には、小さな透明皿が二枚並んでいる。


 一枚には、ネーヴァの首の傷から採取した黒い樹脂。


 もう一枚には、右肩の二本目の傷に残っていた樹脂が入っていた。


「結果が出ました」


 ミナが青い試薬を一滴ずつ落とす。


 二つの樹脂が、同じ紫色へ変わった。


「学院の魔導器具に使う硬化樹脂です。紫晶粉と北杉油の配合が、鍛冶場の保管試料と一致しました」


「学院で作られたものなの?」


 リゼが尋ねる。


「少なくとも、自然についたものではありません。この配合は学院内の工房でしか使っていません」


 ミナは二枚の皿を別々の観測板へ載せた。


「土台は同じですが、刻まれていた術式が違います」


 首の傷から取った樹脂には、赤い線が不規則に走る。


「こちらは痛みを何度も増幅して、判断を乱す術式。ネーヴァを暴れさせたものです」


 右肩の樹脂からは、細い青い線が北へ伸びた。


「こちらは特定の魔力を探し、その方向を竜へ伝える術式。反応先は――」


「北方第一結界塔」


 リゼが言った。


 ミナがうなずく。


 二本の針。


 一本で痛みと恐怖を与え、もう一本で逃げる方向を決める。


 ネーヴァは北の巣から追われ、第一結界塔と同じ波長をたどるよう仕向けられ、学院まで飛ばされた。


「針を刺した者は、学院の材料を使える」


 ダリオが低く言う。


「第一結界塔の魔力も、正確に知っている」


 その両方に当てはまる人間を、俺たちはすでに知っていた。


 けれど、名前を口にする者はいなかった。


 証拠の黒い針は、保管庫から消えている。


 今あるのは、傷に残った樹脂と、言葉にならない竜の声だけだった。

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