新天地フィラデルフィアへの漂着、無一文の絶望から一途な美少女の心を一瞬で撃ち抜く件
ボストンから乗り込んだスループ船は、幾度かの荒波を越え、ついにペンシルベニア植民地最大の港町、フィラデルフィアへと到着した。
船を降り、最初にその新しい街の土を踏んだ瞬間、俺を包み込んだのは完全な「無一文」という冷酷な現実だった。ポケットをいくら探っても、手元に残っているのは、わずか1ドルの銀貨と、数枚の銅貨だけ。衣服は連日の航海による潮風と埃にまみれ、お世辞にも仕立ての良さを誇れる状態ではなかった。
だが、俺の胸中に焦りや絶望といった感情は1ミリも存在しなかった。
前世の高度な経済学と経営工学、そして人間心理を誘導するマーケティングのノウハウをコンプリートしたこの頭脳さえあれば、資産がゼロであろうがマイナスであろうが、最速で富を構築するロードマップは瞬時に弾き出せる。むしろ、すべての足枷を断ち切ったこの新天地こそが、俺の内政無双の真なるスタートラインにふさわしかった。
「まずは生存コストの確保、そしてこの街の市場調査だな」
長旅による強烈な空腹感を覚えた俺は、港の近くにあった小さなパン屋へと足を向けた。
ボストンとは物価の基準も通貨の流通量も異なるはずだ。俺は手持ちの数枚の銅貨をカウンターに差し出し、店主に声をかけた。
「これで買えるだけのパンをくれないか」
店主は俺の汚れた衣服と、それに見合わない堂々とした知的なオーラに少し気圧されたような顔をしながら、大きなパンを3つ、どさりと差し出してきた。フィラデルフィアの物価は、ボストンに比べて遥かに安価で合理的な水準にあるらしい。手渡されたパンは、1つだけでも大人の男の腹を満たすに十分なほどの大きさがあった。
「思った以上のボリュームだな。効率的なエネルギー補給にはありがたいが……」
俺は溢れんばかりの3つの大きなパンを両腕に抱え、そのままフィラデルフィアのメインストリートへと歩き出した。1つのパンを口に咥えて貪り食いながら、残りの2つを小脇に抱えて進むその姿は、客観的に見れば、奇妙で、かつ強烈な「訳ありの天才」としての存在感を放っていたに違いない。
街を行き交う人々が、洗練された身のこなしで堂々と歩く俺の姿に、思わず視線を奪われていくのが分かった。衣服の汚れなど関係ない。カンストした知性がもたらす圧倒的なオーラは、隠そうとしても周囲の空間を支配してしまうのだ。
そして、その運命の交差点は、マーケットストリートの一角で訪れた。
ある大きな邸宅の門の前に、1人の美少女が佇んでいた。彼女の名前はデボラ。
後に俺の理想の商会を、そして帰るべき場所を生涯にわたって守り続けることになる、一途な本妻となるヒロインである。
当時のデボラは、瑞々しい可憐さをまとった、絵に描いたような美しい少女だった。
彼女は、ボストンから着の身着のままで漂着し、両腕に巨大なパンを抱えながらも、世界の本質をすべて見抜いているかのような深い知性の瞳を持つ俺の姿を、門の陰からじっと見つめていた。
その瞬間、俺とデボラの視線が、まっすぐに交錯した。
普通の平民であれば、無一文の男がパンを貪り歩く姿を見て「卑しい浮浪者」として軽蔑するか、あるいは関わらないように目を背けるだろう。
だが、デボラは違った。彼女の澄んだ瞳の奥に、驚きと、それ以上の強烈な「一目惚れ」の光が灯るのを、俺の行動心理学的な観察眼は絶対に見逃さなかった。衣服の汚れというフィルターを透過して、俺の内側から溢れ出る建国の父としてのカリスマ、衰えを知らない現役としてのエネルギーが、彼女の純粋な心を一瞬で撃ち抜いたのだ。
俺は歩みを止めることなく、デボラの目の前を通り過ぎる際、ただ静かに、余裕のある完璧な聖人の笑みを浮かべて見せた。
言葉は必要ない。前世の高度な非言語コミュニケーション(ノンバーバル)の技術を駆使したその一瞥だけで、俺たちの運命は不可逆の領域へとロックされた。振り返ることはしなかったが、デボラが顔を真っ赤に染め、俺の背中をいつまでも、吸い寄せられるように見つめ続けている気配が、肌を通じて明確に伝わってきた。
「フィラデルフィアでの最初の重要パーソン(ヒロイン)の獲得は、想定以上の最高の手応えだな」
俺は歩きながら、残った2つのパンの合理的な処理方法を考えていた。
今の俺の胃袋には、すでに1つ目のパンで十分なエネルギーが充填されている。残りの2つを持ち歩くのは、機動力の観点から非効率極まりない。
ちょうどその時、ストリートの片隅で、幼い子供を抱えて途方に暮れている貧しい身なりの母親の姿が目に入った。新天地の急速な発展の影で、セーフティネットからこぼれ落ちた社会的弱者だ。
「これを受け取ってくれ。今の俺には、1つで十分だからな」
俺は迷うことなく、小脇に抱えていた2つの大きなパンを、その母親の前に差し出した。
特許を無償公開して人類の発展に貢献する、俺の根源的な聖人ムーブは、この無一文の瞬間からすでに始まっていたのだ。
「え……? あ、ありがとうございます、神様のようなお方……!」
母親は涙を流しながら、俺からパンを受け取り、何度も地面に頭をこすりつけるようにして感謝の言葉を述べた。
俺は「お気になさらず。お腹を満たして、強く生きてください」と爽やかな声を残し、翻るようにしてその場を去った。富を持たざる時であっても、言葉の力と行動だけで、人は他者を救い、絶対的な信頼の種を蒔くことができる。これぞ現代知識ベースの内政チートの真骨頂だった。
さあ、生存コストの最適化と、初期の知名度(好感度)への投資は完了した。
次に行うべきは、俺の最強の武器である「印刷」のスキルを活かせる、この街の生産拠点の確保だ。
フィラデルフィアの印刷業界がどのような勢力図になっているか、俺は街の掲示板や、流通しているわずかな印刷物の仕上がりから瞬時に分析を開始した。
この街には現在、2つの主要な印刷工房が存在している。1つはアンドリュー・ブラッドフォード、もう1つはサミュエル・ケイマーという男の店だ。それぞれの印刷物を取り寄せて地の文を解析したところ、どちらの工房も技術水準は極めて低く、文字の配置は崩れ、インクの配合も前時代的で非効率な代物ばかりだった。
「レベルが低すぎるな。ボストンの兄貴も大概だったが、この街の印刷職人たちも、メディアの本質を全く理解していない老害ばかりだ」
俺の頭脳には、インクの粘度を高める化学的配合、プレス機の駆動効率を3倍以上に跳ね上げるエルゴノミクス(人間工学)に基づいた操作法、そして読者を一瞬で魅了する最先端のレイアウト理論がすべてカンスト状態で眠っている。
どちらの店に転がり込むべきか。俺の超合理的思考回路は、より経営状態が杜撰で、内側からハッキングして主導権を握りやすい「サミュエル・ケイマーの工房」を選択した。
俺は衣服の汚れを軽く払い、知的で堂々としたオーラを全身から発散させながら、ケイマーの印刷所の重い扉を叩いた。
中からは、インクの匂いと共に、作業の遅さにイライラと頭を抱える中年の男――サミュエル・ケイマーの姿が現れた。
「何だお前は? うちは今、人手が足りなくて忙しいんだ。物乞いなら他を当たれ」
ケイマーは俺の衣服を見て不機嫌に言い放った。だが、俺は一歩も引かず、その職人の手をまっすぐに見つめながら、衰えを知らない弁舌の切れ味をもって交渉を開始した。
「物乞いではありませんよ、ケイマーさん。私は、あなたのその非効率な作業速度を最速で5倍にし、この店の利益率を今すぐ反転させるためにやってきた、最強の職人です」
「な……何だと!?」
無一文で漂着した謎の人物が放った、あまりにも自信に満ちたその言葉に、ケイマーの動きが完全に止まった。
ここから、フィラデルフィアの街全体を文字の力で支配していく、俺の真の内政無双の第2幕が、静かに、そして圧倒的な速度で幕を開けようとしていた。




