ブラック印刷所の奴隷契約、夜な夜な独学で世界の論文を一気読みして知識ステータスをカンストさせる
ボストンの港から吹き付ける夜風は、昼間のそれよりも一段と冷え込みを増していた。
兄であるジェームズ・フランクリンが経営する印刷所の片隅。俺に与えられたのは、インクの染み付いた古びた作業台の下に敷かれた、薄い毛布1枚の寝床だけだった。
「おい、ベンジャミン! 突っ立ってないで手を動かせ! 今日中にこの地方広告のチラシを500枚刷り上げるんだ。お前はまだ無給の丁稚なのだから、人の3倍は働いてもらわねば困る!」
ジェームズの怒声が、けたたましいプレス機の金属音に混じって響く。
12歳も年の離れた兄にとって、俺は「実家を追い出されて転がり込んできた、都合の良い労働力」に過ぎなかった。9年間の無給労働。文字通りの奴隷契約だ。昼間は重い活字ケースを運び、手を真っ黒に染めながらインクを練り、全身の筋肉を酷使する過酷な労働が続く。食事も、兄の食べ残した硬いパンと薄いスープだけという徹底したブラック環境だった。
だが、作業着の袖で額の汗を拭いながら、俺の胸の内には確固たる計算があった。
「……必死にマウントを取ろうと躍起になっているが、それも今のうちだ、兄貴」
前世の記憶と現代の超合理的思考回路を持つ俺にとって、この劣悪な環境すらも、最強のブーストをかけるための最高の舞台装置でしかなかった。
確かに日中の肉体労働は過酷だが、その代償として、俺はこの街で最も貴重な「情報」が集まる場所に、24時間いつでもアクセスできる特権を得たのだ。
18世紀のこの時代、本や論文といった「紙のメディア」は、現代とは比較にならないほど高価で貴重な財産だった。普通の平民が世界の最新知識に触れる機会など、一生に1度あるかないかだ。
しかし、この印刷所には、イギリス本国から海を渡って届いたばかりの最新の書籍、科学論文の注文原稿、さらには各地の政治情勢を伝える書簡が、インクの匂いも鮮やかに次々と運び込まれてくる。
そして、本当の無双の時間は、兄や他の職人たちが帰宅し、印刷所が完全な静寂に包まれる深夜に始まった。
「さて、ここからは俺のボーナスタイムだ」
俺は小さな蝋燭に火を灯し、昼間のうちに作業台の裏に隠しておいた、イギリスの最新科学論文や哲学書を引っ張り出した。
睡魔と肉体の疲労が襲いかかってくるが、前世の論理的思考フィルターを搭載した俺の頭脳は、それらの障壁をものともしない。活字の並びを目で追うごとに、脳内の「知識ステータス」が目まぐるしい速度で上昇していくのが分かった。
今夜、俺の手元にあるのは、イギリスの哲学者ジョン・ロックの『人間知性論』、そして近代科学の祖であるアイザック・ニュートンの光学に関する最新の論文だ。
普通の人間であれば、その難解なラテン語の専門用語や、時代遅れの表現に躓き、1ページを理解するのすら数日を要するだろう。
だが、俺は違った。前世で構築された高度な現代科学のフレームワークと、行動経済学の理論をベースにして、これらの古典を「超高速」で解体し、再構築していく。
「なるほど、ロックの言う『タブラ・ラサ(白紙状態)』の概念は、現代の認知心理学における初期データのインプット理論に完全に置き換えられるな。そしてニュートンの光の分散実験……この時代のプリズムの精度では、まだ波長の正確な測定に誤差が出ている。1720年代の科学水準はここ止まりか」
蝋燭の炎に照らされた俺の瞳に、文字が吸い込まれるように記録されていく。
1冊、また1冊と、世界の知の最高峰を平らげていく感覚。それはまさに、ゲームの経験値を文字通り一気食いしているような全能感だった。
さらに、俺はただ知識をインプットするだけでは終わらせない。
前世の文章作成技術、すなわち大衆の心理を誘導するための「Webライティング」や「コピーライティング」のノウハウを、この時代の格調高い英語の文体にブレンドする訓練を重ねていた。
イギリスの著名な雑誌『スペクテイター』のバックナンバーを徹底的に模写し、そのエッセイの構造を分析する。
「文章の導入部で読者の共感を呼び、2段落目で既存の常識に対する疑問を投げかける。そして3段落目で誰もが納得する合理的な解決策を提示し、最後は知的なユーモアで締めくくる……。この黄金の文章構成フォーマットを完璧にマスターすれば、ペン1本でこの街の世論を自由自在にコントロールできる」
夜が明けるまでのわずか数時間。俺は毎日、死に物狂いで世界の論文を一気読みし、自らの知性を研ぎ澄まし続けた。
2週間が経過する頃には、数学、天文学、物理学、法学、そして政治経済学に至るまで、この時代の最高峰の知識が、俺の頭脳の中で完全にシステム化され、いつでも引き出せる状態でカンストしていた。
翌朝、まだ薄暗い時間に、ジェームズが気怠そうに印刷所の扉を開けて入ってきた。
その目は眠気で腫れぼったく、手元もおぼつかない。彼は作業台の上に置かれた、昨日俺が1人で刷り上げた完璧な仕上がりのチラシを見て、小さく舌を巻いた。
「フン、仕事だけは早いな、ベンジャミン。だが、お前は調子に乗りすぎる。今日も今日とて、ボストン議会から回ってきた、この堅苦しい通達書の活字組みを夕方までに終わらせろ。いいか、1文字のミスも許されんぞ」
ジェームズが手渡してきたのは、古い法律用語と、回りくどい宗教的表現で埋め尽くされた、極めて読みにくい行政文書の草案だった。
ジェームズ自身、この手の生真面目な文章の活字を拾うのが大の苦手で、いつも丸1日かけてブツブツと文句を言いながら作業していたのだ。それを俺に押し付け、自分は外の酒場へサボりに行こうという魂胆だろう。
だが、俺はその原稿を一瞥しただけで、瞬時にその構造を看破した。
「兄貴、この文章、13箇所も文法の誤りがありますよ。それに、この植民地法第4条の引用部分、2年前のイギリス本国の法改正で、すでに無効化されている古い条文です。このまま印刷して配れば、ボストン議会は本国から『無知な田舎者たちの集まり』だと大笑いされ、うちの印刷所の信用も地に落ちますね」
「な、何だと……!?」
ジェームズが慌てて原稿をひったくり、血相を変えて読み直そうとする。だが、ロンドンで表面的な印刷技術だけを学んできた彼に、本国の最新の法改正の動向や、緻密なラテン語由来の文法エラーなど理解できるはずがなかった。
「お前、適当なハッタリを言って、仕事をサボろうとしているんじゃないだろうな!」
「ハッタリかどうか、今すぐ証明して見せますよ」
俺は棚から、昨日届いたばかりの本国からの官報を引っ張り出し、該当するページを正確に開いてジェームズの目の前に突きつけた。そこには、俺の指摘通りの法改正の事実が、冷徹な活字で刻まれていた。
「……っ! 本当に、改正されている……。なぜ、お前がそんなことを知っているんだ?」
「夜、兄貴がぐっすり眠っている間に、届いたばかりの書類にすべて目を通しただけです。ついでに、その通達書の文章、大衆にも分かりやすく、かつ議会の威厳を損なわない、最も洗練された現代的な表現にリライト(書き直し)しておきましたよ。こちらのメモ通りに活字を組めば、作業時間は今までの3分の1で済みます」
俺が手渡した修正案のメモを見たジェームズは、もはや言葉を失っていた。
そこには、無駄な贅肉が削ぎ落とされ、読む者を一瞬で納得させる、圧倒的な知性に満ちた文章が、完璧な筆跡で並んでいた。
ジェームズの顔から、みるみるうちに「兄としてのプライド」が剥がれ落ち、代わりに底知れない恐怖と、嫉妬の混じった歪んだ表情が浮かび上がるのを、俺は見逃さなかった。
凡庸な人間は、自分の理解を遥かに超えた天才が身近に現れた時、敬意ではなく、恐怖と敵意を抱くものだ。行動心理学の教科書通り、じ実に分かりやすい反応だった。
「……生意気な小僧が。調子に乗るなよ、ベンジャミン。お前はただの、学校中退の丁稚に過ぎんのだからな」
ジェームズは吐き捨てるようにそう言うと、俺の修正案をひったくるようにして作業台へ向かった。その背中は、明らかに焦りで震えていた。
俺はそんな兄の姿を見送 acing、衣服の襟元をスマートに整えながら、誰にも気づかれないように深い笑みを浮かべた。
「恐怖を抱いたか、兄貴。だが、俺の知識チートは、まだ始まったばかりだ。お前がその小さな器で俺を縛り付けられると信じているうちに、俺はこの印刷所のシステムを、内側から完全に掌握させてもらう」
日中の過酷なブラック労働で肉体は擦り減ろうとも、俺の頭脳に蓄積されたカンスト級の現代知識は、すでにこの小さなボストンの街の器を押し破らんばかりに膨れ上がっていた。
ペン1本で世界をハッキングし、世論を意のままに操るための絶対的な準備は、この薄暗い印刷所の夜の手によって、完璧に整えられたのだ。




