第81話 心のふるさと
海縁から聳え立つ山嶺は、北へと果てなく続く。
山嶺を右手に見据えて北上を続けた交易船は、ある地点を境に東へと進路を変えた。
この辺りの海は、南北に聳える山嶺に挟まれ陸地の奥へと続く。
だがある時、舟は再び針路を北へと変えた。
この先は、山間の海を抜けて北上する。
ここまでくれば、最北端の街エルナヴにはあと数日で着くだろう。
そんなある日の朝、空から白いものがふわふわと舞い降りた。
「あっ…」
傍らのシェリーが声を漏らした。
今朝の俺は船縁に鎮座して、シェリーと二人、並んで朝もやに煙る海の回廊を眺めていたのだった。
未だに昼夜の長さは同じくらい。
暦の上では初秋のはずだが、ここは北の地。
この辺りの初雪は初秋に訪れる。
およそ二年ぶりの雪。
しかも、初雪だ。
シェリーの満足げな笑みを横目に、俺はこれまでの旅路に思いを馳せていた。
俺とシェリーが旅立って、およそ一年半。
人間への逆転生を求めたが、結局目的は果たせずここまで来てしまった。
それでも、旅を経て過去を清算し、周囲の助けもあって目途は立った。
正直、よくここまでこれたものだ。
ここまでお膳立てが整ったんだ。
きっと、上手く行く。
身体の奥から湧き上がる緊張感に、負けじと心を鼓舞していると、
ふと背中に触れるものがあった。
シェリーの掌だ。
「モーゼス、何考えてるの?」
「いや……アレスたちと会うのが楽しみだなって」
シェリーが親指で俺の背中、首元の辺りを撫でてきた。
毛並みに沿って、優しい指使いだ。
「ふふっ。あなたは相変わらずウソが下手ね。
大丈夫、きっと上手く行くわ。
ティシアさんとお母さん、それにモーゼス。
皆で一緒にこれだけ準備を重ねてきたんだもの」
「そうだな……」
雪がおさまり、陽の光に照らされて、船は回廊を進む。
岩を海の織りなす回廊を何度曲がったことだろう。
あるとき、曲がった先に広く開けた土地が姿を現わした。
人類最北端の街エルナヴ。
ついに、俺達は帰ってきた。
――――――
港に錨を下ろした交易船から渡しの小舟に乗り、
俺達三人はエルナヴの港に降り立った。
いや、正しくは、二人だな。
俺はいつもの定位置だ。
「昔は立派な港だと思ってたけど、改めて見ると簡素なものね」
「そりゃあ、南方の港町と比べたらな。
あっちは人も船も、量が段違いだ。
とはいえ、ここは北の果て。
そう思えばエルナヴの規模は相当なものだぞ」
俺達は、簡単な手土産を買い、街を後にした。
目指すは南。
小高い丘に差し掛かり、途端に世界が眼に飛び込んできた。
視界の奥には無数の山麓が立ち並ぶ。
その上部は白銀の化粧を纏い、生の気配を感じさせない。
霞んだ空気と初秋の日差しが重なり合い、銀嶺の力強さと神秘を誇張する。
これが、果ての地だ。
手前に目を移せば、山間を埋め尽くすかのように森が裾野に広がっている。
この森の奥に家が待っている。
「ここから家まで、二時間以上はかかる。
母さんは、本当に歩けるのか?」
「ああ、問題ない。
見ての通りさ」
そう言って胸を張った母の姿は、背筋も伸びて年齢よりもずっと若く見える――もっとも年齢は分からずじまいだが。
「じゃあ、行くか」
もっとも、俺はここでも定位置だ。
カモメ姿では、あまり長くは歩けないからな。
飛ぶ方ならどこまででも行けるんだが……。
森を奥へと進むうち、少し開けた場所に出た。
中央には一本の大木。
「あ、懐かしいわね……」
ここは、俺とシェリーが出会った、文字通りの始まりの場所。
シェリーが魔物に囲まれ、万事休すのところに俺が割込み、シェリーを救ったのだった。
あの日、俺はモーゼスの名を貰い、シェリーに連れられ向かった家で旧友と再会し、そして家族になった。
シェリーの家で暮らすうち、いつしか俺にもこの地を故郷と思う、そんな気持ちが生まれたのか。
俺達は、更に森の奥へと進み、無数の切り株に囲まれた丸太小屋を視界にとらえた。
小屋の近くの切り株に男が座り、こちらに目を向けている。
この距離からでも、カモメの俺には男の表情が見える。
座ってもなお隠せない長身に、爽やかな黒髪。
小皺が目立つが、それでも端正な顔立ち。
その奥に控える薄茶色の瞳。
上品に整えられた口髭。
シェリーの父、アレスだ。
アレスが口角を上げ、目尻を僅かに下げるのが見える。
突如、シェリーが走り始めた。
あまりの勢いに、振り落とされそうになる。
同時にアレスが立ち上がるのが見える。
「おとうさん!」
シェリーが近づくと、アレスは両手を広げた。
そして、シェリーはアレスの胸元に飛び込んだ。
だがアレスの体はびくともせず、難なくシェリーを受け止めてみせた。
剣聖の二つ名は伊達じゃない。
シェリーはアレスに頬を合わせ、静かに囁いた。
「ただいま」
「おかえり、シェリー」
久々に聞くアレスの声は懐かしく、
かつてこの地で過ごした日々が脳裏に浮かび上がらせる。
俺は、帰ってきた。
心のふるさとに。




