第64話 月下の約束
黒髪を介しての神界への呼びかけは失敗に終わった。
だが、シェリーの提案で、新たな糸口も見出された。
人間化の後に魔力材を飲み、本番の逆転生術を行使するのだ。
だが、今日は長い一日だった。
母の勧めでひとまず休むこととし、再挑戦は翌日に繰り越された。
その晩。
月明かりが窓から射し込む中、俺達は寝床に着いた。
シェリーはベッドに横たわり、俺は枕元でカモメ座り。
言葉はない。
だが、その息遣いでシェリーがまだ起きていることは分かる。
どれだけ時間が経っただろうか。
ふと、シェリーが囁くように話しかけてきた。
「モーちゃん、まだ起きてる?」
その響きは透き通っていて、体を駆け抜け心の深奥を震わせる。
安らぎをもたらすその声は、一種の魔法のようなものだ。
心地良さに包まれる中、自然と返事が口から洩れる。
「ああ、シェリーこそ。
眠れないのか?」
一拍置いて、魔法の声が再び周囲に響き渡る。
「うん……。
いよいよ、明日ね」
その声色は、いつにも増して澄んで聞こえる。
「そうだな。
でも、そんな緊張することでもないさ。
仮に失敗したって……。
母さんだってそのまま帰って来ただろう?」
「……そうね。
実は私、自分の気持ちが分からなくなってきたの。
モーゼスには人間に戻って欲しい。
でも、失いたくないの。あなたを。
お母さんのことがあったって、今度もそうとは限らないじゃない」
そうか。
心配、いや、それすら通り越して達観してしまったか。
達観したが故の落ち着き。
何か、良い言葉は……
「うーん。
確かに、保証はないか。
とは言え、ミルコロンは縁結びの象徴らしいし、
流石に大丈夫なんじゃないか?
それに、万が一俺の身に何かあるなら。
その時は転生神をぶん殴ってでも帰ってくるさ。
だから、安心してくれ。
何も心配はいらない」
「うん……。
じゃあ、約束よ。
必ず、帰ってきて」
ふたたび、シェリーの声が脳髄を刺激する。
孤立波に打たれたかのようだ。
静かに、しかし鋭く立ち上がり、深い余韻を残す。
俺は、この声をもっと聴いていたい。
まだ足りない。
だから、
「ああ、任せてくれ」
俺は、必ず戻ると心に固く誓った。
そんな決意がシェリーに伝わったのだろうか。
続くシェリーの言葉は、先ほどよりも幾分和らいで聞こえた。
「ありがとう。
ところでモーちゃん。
今日はこっちで寝ない?」
シェリーが腕の辺りをぽんぽんと叩く。
そして、言った。
「あなたの温もりを、感じていたいの」
その時俺は、首を伸ばして立ち上がるところだった。
だが、シェリーの言葉に思わず動きが止まる。
これは……。
今からでも人間に戻って、男として応えるべきか。
いや、しかし。
それでは全てが台無しだ。
一時の衝動に負けてどうする。
俺は賢者、いや叡者だ。
ぐぬぬ……。
どうにか煩悩に打ち勝った俺は、
平然を装い静かに答えた。
「俺もだ、シェリー」
俺はすっくと立ちあがると、シェリーの脇へと進む。
腕を乗り越え、位置を決める。
そして横たわり、腹でシェリーに密着する。
首は伸ばして肩に預けた。
腕に、抱かれるのが分かる。
シェリーの温もりが全身に伝わってくる。
俺達が、生きている証拠だ。
このまま寝る前に、一つ言っておかないと。
大事な事を思い出し、俺は再び口を開いた。
「なあ、シェリー」
「ん? なあに?」
今度は甘い響きだ。
シェリーも成長し、いつの間にか色気も身につけた。
《《大人》》になる時は、近づいている。
だからこそ、これは言っておかないと、いけない。
「さっきの話なんだが、俺の身にもし何かあったらその時は……」
「うん」
一度深呼吸をし、努めて冷静に、語りかけた。
「俺のことを忘れてくれとは言わない。
でも、捉われて欲しくないんだ。
シェリーにはまだ十分な時間がある。
その時はもう一度、幸せを見つけて欲しい。
それが俺の願いだ」
……言った。
言ってしまった。
必ず帰ると良いながら、なんて矛盾だ。
だが、人生に絶対はない。
だから、これだけは伝えておかねばならなかった。
シェリーが怒らなければいいんだが。
その時、シェリーの息遣いが変わった。
「……分かったわ。
でもそれは、その時になってから考えることにするわ。
ありがとう、モーゼス。
あなたの気持ち、聞けてよかった」
よかった。
伝わったか。
「それでいい。
ま、俺は何としてでも帰ってくるけどな」
そう言うと、シェリーの笑い声が漏れた。
「ふふっ、そうね。
愛しているわ、モーゼス」
シェリーがゆっくりと、羽を撫でてきた。
なぜこんなにも心が落ち着くのか。
柔らかく、繊細な指の感触。
そして、シェリーの匂い。
シェリーの全てに包まれて、俺も心の殻を脱ぎ去った。
「ああ、俺もだ。
シェリー、愛している」
暫くそのままで、二人佇んでいた。
身体を通して聞こえる心の音は、いつもより遅く感じられる。
しばらくの後、シェリーの手が止まった。
「なんだか長くなったわね。
そろそろ寝ましょうか。
おやすみ、モーちゃん」
そうだな。
俺も満足した。
いい頃合いだ。
「おやすみ、シェリー」
そう答えると、俺は目を閉じ、
五感の全てをシェリーの身に任せることにした。
シェリーに包まれ、いつしか俺の意識は遠のいていた。




