遠回りの答え合わせ
フィンランドの夏は、すべてを白夜の淡い光で包み込む。
ノルッシの校舎から見える空は、午後八時を過ぎてもなお、昼間のような青さを保っていた。
高校二年生になったヘルミ・フォン・ヴリフトは、図書室の窓辺で古い美術書を閉じ、小さく息を吐いた。
成績は順調、友人関係も良好。絵画を愛し、静かに日々を過ごす彼女の高校生活は、一見何不自由ないものだった。
けれど、ここ数日、彼女の心は凪を失った海のようにざわめいている。
――彼が、帰ってくる。
ヨーロッパ随一のサッカークラブ、レアル・マドリード。
十七歳という若さでトップチームに昇格し、国王杯の終盤戦に出場、さらには本拠地サンティアゴ・ベルナベウでのリーグ戦デビューまで果たした。フィンランドの、いや、世界のサッカー界を震撼させている天才少年――ダン・ホルトーリ。
ヘルミにとって彼は、「特別な先輩」だった。
(あの日、私は何も言えなかった……)
脳裏に蘇るのは、彼がスペインへ旅立つ直前の、雪が混じる冷たい風の日のこと。
ノルッシの校門の前で、ヘルミは自分の気持ちを必死に隠していた。世界へ羽ばたく彼の足を、自分の淡い恋心で引っ張りたくなかった。
名家のお嬢様としての矜持が、そしておっとりした性格が、彼女の口を噤ませたのだ。
『頑張ってください、先輩。ずっと応援しています』
笑顔で見送るのが精一杯だった。彼は「おう、ありがとな!」と、いつも通りの無邪気な笑顔で手を振り返し、行ってしまった。
サッカーのことしか頭にない彼に、自分の視線なんて届いているはずがない。そう思っていた。
「ヘルミ、何ボーッとしてるの? ほら、みんな待ってるよ」
友人の声にハッと我慢の泡が弾ける。
ノルッシは小規模な学校だ。ヘルミがダンのことをずっと目で追っていたことなど、周囲の仲間たちは疾うの昔に気づいていた。
そして、プロとして一回り大きくなって帰ってきたダンが、真っ先に「ヘルミに会いたい」と周囲に連絡を入れてきたことも。
「まずはグループで自然に誘い出そう」
友人たちの粋な計らいによって、地元のカフェでの小さな「お帰り会」がセットされた。
久しぶりに見るダンは、背が伸び、心なしか佇まいにプロの「余裕」のようなものが漂っていた。
「スペインの飯も美味いけど、やっぱりヘルシンキの空気が一番落ち着くわ」
そう言って笑うダンの姿に、ヘルミの胸は高鳴る。
会が終盤に差し掛かった頃、友人たちが目配せを交わした。
「あ、私ちょっと用事思い出しちゃって!」
「俺も、次のトラムに乗らなきゃ」
不自然なほど鮮やかな手際で、席は二人きりになるよう御膳立てされた。
残されたのは、夕暮れ(といっても明るい)のエスプラナーディ通りへと続く、静かな港のベンチ。
二人きりになると、ダンは少しだけ気恥ずかしそうに髪を掻いた。
育ちの良さを感じさせる綺麗な仕草だが、口を開けばやっぱり、いつもの彼だった。
「いや、ラ・リーガの奴らの寄せの速さ、マジでえげつないんだよ。俺の『懸河ドライブ』も、打てれば無敵なんだけど、打つ所を潰しに来るんだ。一瞬でも判断が遅れると簡単に潰される。でもさ、ベルナベウの歓声の中でボールを蹴った時、あぁ、俺はここで生きていくんだって思った」
楽しそうにサッカーの話をするダン。ヘルミはそれを、いつものようにおっとりとした微笑みを浮かべて聞いていた。やっぱり、先輩の頭の中はサッカーでいっぱいだ。私が入る隙間なんて、きっと…
ヘルミが一瞬だけ、ほんの少し目を伏せた時だった。
「……でもさ、ヘルミ」
ダンの言葉がピタッと止まった。
ピチカートの弦が弾けたような静寂。ヘルミが顔を上げると、ダンが真っ直ぐに彼女の「碧い瞳」を見つめていた。
超サッカーバカ。けれど、彼は決してバカではない。
その天才的な『眼』は、今、目の前にいる少女の、ほんの小さな寂しさの揺らぎを完璧に捉えていた。
いや、それだけではない。
ダンは、ノルッシにいた頃から、自分をずっと見守ってくれていたヘルミの視線に――その真珠のような清らかな好意に、とっくに気づいていた。気づいていたからこそ、スペインの過酷なプレッシャーの中で、彼女の存在にのめり込み、彼女の微笑みを心のオアシスにして戦ってきたのだ。
「俺さ、サッカーのことしか分からないし、四六時中サッカーのことばっかり考えてる。それはプロになっても変わらない」
ダンの口調は、いつものぶっきらぼうなそれとは違っていた。品のある、けれど男としての強い覚悟が乗った声。
「だけど、ヘルミがずっと俺のこと見ててくれたの、知ってたよ。旅立つ日、お前が寂しそうな顔してたのも、本当は気づいてた」
ヘルミが息を呑む。
「マドリードに行って、お前が隣にいないのが、すげー寂しかった。そこでやっと、俺の中でヘルミがどれだけデカい存在になってたか分かったんだ」
ダンは一歩、ヘルミに近づいた。
「俺、これからもっと上に行く。恐らくもっと過酷な場所に行く。離れる時間は長くなるけど……俺の彼女になってよ。お前が待っててくれるなら、俺、どんな世界の壁だって超えて見せる。」
余裕を格好つけて見せていたはずの十七歳のプロ選手は、最後はやっぱり、泥だらけのストライカーのような、真っ直ぐで不器用な直球を投げ込んできた。
白夜の光に照らされたヘルミの瞳から、あの日言えなかった想いが、大粒の真珠となって溢れ落ちた。
遠回りをした二人の答え合わせ。今、ヘルシンキの静かな港で完成した。
おじさんが甘酸っぱい、遠い記憶を呼び起こすの酷。有害業務だよ笑




