第9話 屈辱(一)あなたの色ではない
夜会の前夜には、内輪の小夜会が開かれるのが習いだ。
王家と、縁の深い数家だけの集い。当然グランハルト侯爵家も呼ばれ、当然ヴィンセルも来る。婚約解消を明日に控えた婚約者たちの、最後の顔合わせ――社交界がいちばん好きな種類の見世物だった。
その小夜会のために、ひと月前から仕立てられていたドレスがある。
婚約者から婚約者へ贈られる、慣例の衣装。深い菫色の絹に銀糸の刺繍を散らした、それは見事な一着――のはずだった。
「申し訳ございません、姫様……! その、グランハルト様が、仕立て上がったドレスを、その……」
夕刻、青い顔で報せに来た衣装係に、私は先を言わせなかった。
「リュシオラのところへ運ばせた、でしょう」
「な……なぜ、それを」
「いいのよ。想定内だから」
想定内も何も、前世に一度見た場面だ。
あのときの彼の言い分も、覚えている。今世もどうせ同じことを言う。曰く――
『リュシオラが、どうしてもこのドレスを着たいと言ったんだ。俺からの贈り物なんだから、俺の好きにしていいだろう? それに、あなたにはドレスなんて他にいくらでもあるじゃないか』
……ふふ。
言っておくけれど、ヴィンセル様。あのドレスの生地も色も、指定したのは私よ。
贈り主のあなたは仕立て屋に丸投げして、仕立て屋は「王女殿下のお好みを」と私に伺いを立てた。だから私は、ひと月前に選んでおいたの。
私の瞳と同じ、深い菫色を。
月白の銀髪と菫の瞳のために染められた布が、蜂蜜色の巻き毛と空色の瞳の上で、どう見えるか。
殿方には分からなくても、この国の夫人がたには一目で分かる。
*
果たして――小夜会の広間に現れたリュシオラは、菫色に呑まれていた。
濃い紫は、彼女の甘い色彩をことごとく殺す色だ。可憐が売りの顔立ちは青ざめて見え、巻き毛の蜂蜜色は褪せて見え、何より「借り着」の空気だけが、痛いほど匂い立つ。誰の目にも、誰のために誂えた衣装かが分かってしまう。
夫人がたの扇の内側で、囁きが走った。
「あれは……第一王女様の御衣装では?」
「贈られた殿方が、妹君に回されたの? まあ……」
「まあ……」
まあ、の一言に、千の意味を込められるのが社交界という場所だ。同情でも義憤でもない。ただの醜聞の香り。けれど今夜のそれは、初めて私ではなく、あちらに漂っていた。
そして私はといえば。
「リディエンヌ王女殿下の、ご入場です」
母のドレスを着て、広間に立った。
先の王妃エルヴィーネが最後の生誕祭で纏った、飾りのほとんどない、灰青の絹。流行から十年遅れた古風な仕立て。宝石は、耳元の小さな真珠だけ。
広間が、すっと静かになった。
「……先の王妃様」
誰かの掠れた呟きが、静寂によく通った。
年配の招待客ほど、その顔に驚きが広がっていく。フェルゼン侯爵未亡人などは、口元を袖で押さえて、目を潤ませてさえいた。母がこの国の社交界にどれほど愛されていたか――娘の私が、いちばんよく知っている。
飾らないことが、いちばんの正装になる夜がある。
母の遺した色は、流行の外で、ただ静かに強かった。
「今宵は皆さま、ようこそ」
私は微笑んで、広間を歩いた。一歩ごとに、視線の意味が変わっていくのが分かる。哀れまれるはずだった女が、今夜のこの広間で、誰よりも王家の顔をしていた。
ヴィンセルは広間の隅で、菫色のドレスの義妹の隣に立ったまま、こちらを見ていた。
何かがおかしい、という顔で。
何がおかしいのかは、一生かかっても分からないでしょうけれど。
*
「――お上手ですこと」
夜会の半ば、継妃グリゼルダが、静かに隣に並んだ。
完璧な微笑。完璧な扇の角度。その内側の声だけが、氷だった。
「亡くなられたお母様まで、道具になさるのね」
「まあ。形見を着るのは、道具ですの?」
「……近頃のあなた、本当に、可愛げがなくて」
「あら」
私は、母がよくしていた角度で首を傾げ、母がよくしていた微笑で返した。
「継妃様がいちばん憎らしくご記憶の方に、そっくりになってきたでしょう?」
継妃の目が、初めて揺れた。
毒を盛って、玉座から消して、それでも消えなかった女の面影を、私はこれから死ぬまで、この人の前で着続けてやる。
ぱき、と。
継妃の扇の骨が、細く音を立てた。




